こちらは狩野永徳の時代に、絵師として張り合った長谷川等伯の半生を描いた作品。
長谷川信春は能登の七尾城主だった畠山家に仕える武家の生まれ。幼い頃に城下の染め物屋に養子となる。染め物と共に仏画などを描く養父に教えられて、絵の道に入り、長ずると名を知られる絵師となり、各地の寺などに絵を納めた。
養父母の死後、壊死として生きることを決意し、妻と二人の息子を連れて上洛。絵師としては食っていかれず、苦労した。やがて商家の求めによる絵で食べていけるようになる。
生まれつきの法華信者だった信春は、故郷の法華寺の本山である本法寺に紹介され、日通と知り合った。堺の豪商の息子から出家した日通とは親しくしていた。のちに、その縁戚の出戻り娘を後妻にした。
物語は、織田信長の本能寺での災禍から始まる。
絵の才に秀でた次男の久蔵を煙たく思い、長子の宗宅は堺で一人暮らしていた。
信長を倒した明智光秀にちかづき、狩野派に独占されている寺院の仕事を、いくらかでもとりたいと願った信春だが、光秀はあっさりと秀吉に討伐されてしまう。こうしてあらたな天下人として現れた秀吉。
利休と知り合い、その紹介で堺の豪商からの仕事を得ていた信春だが、今度は信長を供養するために建立された大徳寺内の寺院の障壁画を依頼される。無事終えて、京でも名を知られるようになる長谷川一派。その頃、狩野派は絵の料紙や顔料を買い占めようとする。それは新たに築城される大阪城の絵を狩野一門が依頼されたからだった。
妻が通う連歌の会のつてで、京奉行前田に近づく信春。一方、そんな父のやり方に批判的な久蔵。
そんな久蔵は忙しい父の代わりに勤めた絵仕事で、所司代に勤める奥方と知り合う。璃枝とはその後道ならぬ恋をし、死ぬ間際に一緒に住むことになる。能登と越前という、二人の故郷の近さが縁だった。
京奉行の口利きで、新たに造営される仙洞御所の絵を任されることになるも、狩野派の横槍で、それを奪われる。
その頃父に反発していた久蔵は、一人旅に出て、幼い頃にいた故郷の七尾に向かっていた。昔の父の絵が今も残ると聞き、越中まで足を伸ばした久蔵は、若い頃の父親が絵師としての苦労をしたことに、思いを馳せ、父を見直し、京に戻る。
仕事を横取りした狩野永徳が過労のために死去。隠居を考えていた信春は、永徳の死で、狩野派の屋台は揺るがないだろうが、その波紋で、いくらかの仕事は回ってくるかも知れないと期待した。弟子をつれて焼香にいったことを、あとで陰口を言われたが、等伯は気にしない。
利休が切腹の沙汰を受ける。璃枝は夫共々秀吉の朝鮮出兵の準備のために肥前へ旅立ち、久蔵と別れる。
そして、秀吉の若様の死で、新たに建立される寺の仕事が、等伯にもたらされる。ふすま絵が百枚。一門だけでは手が足りず、狩野派の門人を引き抜いて、仕事する等伯。
朝鮮渡海に際して離縁された璃枝が一人京に戻り、久蔵と暮らし始める。
資金繰りに窮した等伯は、本法寺の住職となった日通に用立てを頼む。代わりに日通は後世に残す仕事として、絵師等伯の一代記を書きたいという。
半ば完成したふすま絵の松。庭に植えられる桜と対にするつもりだったが、庭に松が植えられたと知り、困惑する等伯たち。久蔵は書き直すと言い出し、一人専念する。
無事に完成はしたものの、久蔵は無理がたたって、急死。
この仕事により、長谷川派を建立した等伯。知り人が次々と亡くなっても生き延びた等伯。七十を越えて、江戸に呼ばれた等伯は、江戸についてまもなく病死。
跡を継いだ凡庸な絵師である長子の宗宅は、京の妻にあてた手紙で、父は餓死により自裁したと伝える。やりおえた、そんな言葉を残した等伯。今さら新たな天下人に翻弄されるのを拒否したらしい。
御用絵師の狩野家に追い付き、対峙して、一時的にではあるが、狩野家を乗り越えた能登出身の田舎絵師の一代記。