鷹ヶ峰に移住した本阿弥光悦とたもとを分かった伊年は、養父で、俵屋主人である仁三郎の病床を訪れ、これまで勝手を許してくれた礼を述べるとともに、以後は俵屋の商売に専念するといい、自分に継がせてほしいと言う。
仁三郎はそれを許して、彼が茶会で使っていた号を譲る。こいして俵屋宗達は生まれた。
彼が最初にしたことは、俵屋の絵手本を店の職人たちに公開し、自由に使わせることだった。そして、仕上がりを宗達が確認して、合格したものだけを、俵屋の商品とする。それらはよく売れた。俵屋は京で一番の扇屋となる。
8年後、宗達は絵職人だけでなく、主人の勤めもできるようになった。
その間、宗達は四十路で嫁を迎え、二人の娘ももつ。仁三郎は二人の孫の名付けをして、やすらかに息を引き取った。
扇ばかりでなく、屏風などにも手を伸ばし、絵屋として手広く商売を広げる。
そんな宗達の転機となるのが、また一人の男。公家の烏丸光広。
彼の仲介で、御所や寺院の絵師の仕事に絵を伸ばすことになり、後世に残る傑作が生まれることになる。
養源院の内装画、戸板に描いたのは唐獅子と白象図。さらに、奥の間のふすま絵に松の古木と岩。
京都五山の相国寺に、六曲一双の屏風絵には、蔦の細道図を。
町絵師の宗達は烏丸により、御所の御用絵師である法橋の位階を得る。その御披露目に飾られた松島図屏風。
醍醐寺の関屋澪標図屏風は、院主の希望で、源氏物語を題材にしている。
醍醐寺の花見の宴で披露された舞楽図屏風。それに専念するために、宗達は隠居。その完成の直後、六十で死ぬ。そして誰の依頼かわからぬが、残されていた風神雷神図屏風、