江戸時代の絵師4人が描かれている。
徳川幕府ができた頃、御用絵師となった狩野探幽、旗本待遇の奥絵師で、土地屋敷を拝領されていた。描かれるのは、その一番弟子の久隅守景。弟子の四天王になり、師の姪を妻にしている。我慢、辛抱、忍耐の弟子の日々を重ねて、人一倍励んできたお陰で一番弟子と言われながらも、これの一点という代表作がないのが、キズ。狩野派の弟子は、扮本と言われる師やその代々の絵師の絵をひたすら模写することを命じられ、扮本にない題材は描くのを禁じられた。
そんな守景にも時には、生き生きとした現実の風景や人の情景に魅せられ、描きたいと思うこともある。そんなものは需要がなく、商売にならないと言われるだけ。逆らえば破門となり、生活にも困る。二人の子も弟子となっている。
そんな守景を変えたのは、振り袖火事により、毎日見ていた城の天守閣が燃えてしまったこと。変わらないものの象徴だったそれが一夜にして消えたことで、自分の望みを押さえていた権威をなくした。
以降、この一作と言える絵を描こうと懸命になるも、なかなかできない。娘は
自害して死に、息子は傷害事件で島流し。そして破門され、商人相手の絵で暮らす身となり、さらに加賀の金沢へ。
やがて、自分の望みも忘れた老年になり、息子が島から帰るときいた守景は、子供らが幼い頃の家族の楽しい情景を思いだし、それを絵にした。死の間際に描いた、その作が今に残る、彼のこの一作だった。夕顔棚納涼図屏風。
英一蝶は御用絵師狩野安信の弟子だった。父は伊勢亀山藩の侍医だったが、絵の才能を認められ、狩野派に推挙されて弟子となる。しかし、兄弟弟子にいじめられた、それがもとで、鼻が品曲がるほど。藩主の薦めと餞別までもらったので、帰るわけにはいかない、生き抜くために自尊心を捨て、おとなしくなることを決める。それから20年、綱吉将軍の時代、彼は野心がないことを表すために、剃髪して、朝湖と名乗る。中橋狩野家で五本の指に入る弟子となる。吉原にかよい、醜い面相のため太鼓持ちのまねごとしている。年下の友人、宝井其角は俳人芭蕉の高弟。朝湖も句を詠む。
そんな彼が描いた絵が、生類哀れみの令を出した将軍を揶揄したと捕まり、島流しにされる。三宅島。
島に来て、彼は自然の音や匂いに気づく。絵にしたいと思うが、道具はない。絵筆も絵の具も紙さえ、持ち込みを禁止された。それでも名主らに頼まれ、絵馬を書いたりした。そんなとき島に来た島流しになった女と知り合い、絵を描くのを勧められる。彼の絵を見たことがあるという。染め物屋の娘は、絵の具は作ればいいという。赤穂浪士の話を聞いて、一念発起。その娘への恋情も。江戸の風景を描く。近くの島の船主に頼まれた絵を描く引き換えに、絵の具などの道具を調達してもらい、絵に打ち込む。虚空蔵菩薩像、七福神、江戸舞の若い女。3幅の絵を書き上げたのを機に、その娘と所帯をもつ。元禄が終わり、彼は54才。翌年死期をさとった其角が島を訪ねてくる。それから2年あまりたち、将軍崩御により、赦免され、江戸に戻る。女房と息子をつれて。
江戸に戻り、画名を朝湖から英一蝶と変える。今浦島と評判になり、豪商に呼ばれるように。其角の分もと、絵だけでなく、俳諧にも、女アサリや吉原通いに精を出す一蝶。其角に聞いていた京の絵師光琳の絵をはじめてみて、圧倒される。
狩野探幽が鷹なら、光琳は大鵬だと。参りながらも嫉妬が膨れ上がる。身の程をわきまえ、浮世絵を描く。狩野家の品を失わず、光琳目指して描き続けた一蝶。
一点ものの代表作はないが、売れた一蝶。
自大は八代将軍吉宗の頃、京の錦小路にある由緒ある青物問屋の跡取り息子は生き物が好きだった。店先で蟻を見てあきることがない。店先の平たい石に蝋石で、その姿を描く。両親は注意しながらも、なかばあきらめてる。こんな跡取りでは店の将来はない。町狩野の絵師を雇い、てほどきするも、本人にはその気がない。ただ、生きてるものを見ているのが楽しい。裏庭で池の魚を飽かず見ていた彼に声をかけた若い僧侶。生きてるものが今現に生きている姿を残したい、絵にしたいと思っていた。そんな彼の気持ちを理解してくれた上に、それは仏教に通ずるものだと僧はいう。地面にそんな生き物を夢中で描き続ける彼に、僧は矢立を差し出し、懐紙も出す。ぎょうさん生き物を描いて、命そのものをかけるようになったら、上京の相国寺に持ってこいと。あだ名は梅坊主だと。
その坊主に彼は恋した。女嫌いだったっわけもわかった。彼のために描こう。
それから数十年、四代目伊藤源左衛門となった少年は35才。相変わらず変わり者。女に興味がなく、宴席もでない。庭に70羽の鶏を飼い、毎日見てる。写生した。中国の絵を手本にして描いた。狩野派の絵には命がなく、役に立たない。そしてついに梅坊主のもとを訪ねていく。
持っていった10枚の絵を見た梅坊主は、すぐに隠居して、絵だけを描くがいいと。次期住持になる大典和尚様は、お前の絵は生き物が主という地平で描いている。だから絵師は遠近も問題にしない。生き物それぞれが主となり、それぞれの視点で描かれる、多重視点の絵だと。奇や狂や下手ものさえ許す京なら、かなりいいところまでは行けるだろう。老子から選んだ若冲という画号を授けてくれる。のびのびと先達を何ももであろうと蹴飛ばして絵を描けと。
8年後大典への思いを込めた白鳳絵を描き、見せにいく。絵の技法や贅沢に絵の具を使った絵を誉めてくれるが。若冲の思いには触れない。代わりに、たくさんの生き物を描いてくれという。一室にそれらを並べたら、仏の広さ、愛の深さがわかると。こうして描かれた30幅の絵が彼の代表作の一つになった。動植さい絵。さらに様々な技法を工夫し描き続けた若冲。
大典がつれてきた若者たちを弟子として、描き続けて、十年あまり。73才のときに、京は火災に遇う。大典の寺も焼け、自分の絵が失われたと思った若冲。大典の機転で、無事だとわかる。
最後の絵師は浦上玉堂。備前池田藩の支藩岡山新田藩の重役である大目付。教養豊かであると共に、彼は琴を弾く名人だった。七弦琴の名人だった。
肛門近くにできた腫れ物の治療をしたことがきっかけで、精を失った。
50才で隠居して、琴士となる。そして自分の思いを託した絵を描き始めた。自分が失った男根を象徴するような山を描く。
年老いて、手に入れた中国南画の扮本で学び、絵を描く。絵は何か訴えるものがあると知る。素人ながら空想を馳せ、描き続けた。琴を教えながら諸国を流浪しながら描き続けた。素人ゆえに、大自然を素直に描き続けた凄みだけの絵。