考えてみれば十月、いまさら残暑のわけもない。朝晩の冷えだけでなく、昼間でも寒さを感じる季節なんだ。
平日の朝だと言うのに、のんびり読書している。
このあと、昼近くに葬儀に出るため、仕事を休んだ。
一応、じげ(地下)親戚なので、昔から何かと手伝いに駆り出されたものだが。今回は喪主の娘夫婦が別居しているからか、じげ親戚のつきあいはなしで行いたいらしい。つまり一般会葬者扱いにするということで、気楽だが。
昼近くの葬儀では、郊外の職場だから、行ってもとんぼ帰りするだけのため、休みをとることにした。お陰で平日と言うのに、朝からのんびりしてる、
昨日は午後三時に職場を辞して帰宅。通夜は午後七時、迎えの車が一時間前に来ていた。
その前、おもてで救急車のサイレンがなっていて、裏辺りで止まる。窓から覗くと、裏の川端に止まっている。
誰が?と好奇心も手伝い、外に出て窺っていると、隊員が担架をもって路地を入った家の入り口付近に入っていく。確か独り暮らしの老女。医者をしている息子さんが別居している。独り暮らしで、誰が通報したのか?
やがて担架は空で戻されたものの、救急車は走り出さない。
あとでわかったが、たまたま訪れた息子さんが帰宅したら、母親が孤独死していたらしい。ために警察も来て、近所で聞き込みをしたとか。
引き続きまた葬儀かと話題になったが、いまだに何の連絡もない。家族葬で済ませるのかもしれない。私たちには世話がなくありがたいが。昔から付き合いがあったものには寂しいことかもしれない。儀礼とはいえ、葬儀には肉親や親しいものが故人と別れを告げる心理的な役割もある気がする。別に個人的に心中でするだけでもいいが、ひとつの儀礼として行うのが無駄だとは思えない。
九十を越えた老人はあと何人だったか。時の流れとはいえ、いつかは私もそのときが来るのだろう。後悔がないわけではないが、前を向いて歩いていくしかない。まだ六十代、順番から言えばまだまだ先の話だと思いたいが、必ずしも順番通りでないことも確かなこと。
葬儀を期にあれこれ普段考えないことに思いを馳せるのも、儀礼の役目かもしれない。
平日の朝だと言うのに、のんびり読書している。
このあと、昼近くに葬儀に出るため、仕事を休んだ。
一応、じげ(地下)親戚なので、昔から何かと手伝いに駆り出されたものだが。今回は喪主の娘夫婦が別居しているからか、じげ親戚のつきあいはなしで行いたいらしい。つまり一般会葬者扱いにするということで、気楽だが。
昼近くの葬儀では、郊外の職場だから、行ってもとんぼ帰りするだけのため、休みをとることにした。お陰で平日と言うのに、朝からのんびりしてる、
昨日は午後三時に職場を辞して帰宅。通夜は午後七時、迎えの車が一時間前に来ていた。
その前、おもてで救急車のサイレンがなっていて、裏辺りで止まる。窓から覗くと、裏の川端に止まっている。
誰が?と好奇心も手伝い、外に出て窺っていると、隊員が担架をもって路地を入った家の入り口付近に入っていく。確か独り暮らしの老女。医者をしている息子さんが別居している。独り暮らしで、誰が通報したのか?
やがて担架は空で戻されたものの、救急車は走り出さない。
あとでわかったが、たまたま訪れた息子さんが帰宅したら、母親が孤独死していたらしい。ために警察も来て、近所で聞き込みをしたとか。
引き続きまた葬儀かと話題になったが、いまだに何の連絡もない。家族葬で済ませるのかもしれない。私たちには世話がなくありがたいが。昔から付き合いがあったものには寂しいことかもしれない。儀礼とはいえ、葬儀には肉親や親しいものが故人と別れを告げる心理的な役割もある気がする。別に個人的に心中でするだけでもいいが、ひとつの儀礼として行うのが無駄だとは思えない。
九十を越えた老人はあと何人だったか。時の流れとはいえ、いつかは私もそのときが来るのだろう。後悔がないわけではないが、前を向いて歩いていくしかない。まだ六十代、順番から言えばまだまだ先の話だと思いたいが、必ずしも順番通りでないことも確かなこと。
葬儀を期にあれこれ普段考えないことに思いを馳せるのも、儀礼の役目かもしれない。