なんとか最後まで目を通した。
著者は小泉八雲の長男一雄の孫に当たる。民俗学を専攻する松江にある短大の教授であり、小泉八雲の記念館の館長を勤めている。

ここに書かれているのは小泉家に伝わる怪談話や八雲以来の一族の人々や関係者にまつわるエピソード、さらに八雲の両親やそれぞれのルーツにまつわる逸話や邂逅の記録。
八雲自身は幼くして別れた実母への思慕は生涯持ち続けたものの、父親やその一族に関してはあえて無視していた。しかしひ孫である凡さんから見たら、父方母方関係なく、同じ血が流れる一族として関心を持ち、探索の旅もしている。

旅好きが高じて民俗学を専攻した凡氏には、生涯を旅で過ごした曾祖父八雲の遺伝子が伝わっているのかもしれない。さらにアメリカ時代には八雲は民俗学の草分け的な著作も残していて、民俗学者の先駆者の片鱗も残している。そうした心象が日本の文化、神話や伝説さらに怪談などへの関心を掻き立てたのだろう。

怪談を楽しむには遊び心が必要だと凡さんは言う。遊びとは前もって価値や意味を決めないまま、余裕を持って大切に残されたもの。遊び自体は無駄なものに見えるが、遊びや余裕があってこそ生まれる偶発的な出会いや発見もある。遊びのある社会こそ、創造性は生まれるし希望も作り出せる。希望学という新しい学問を切り開いた島根出身の玄田氏はそう語ると、凡さんはあとがきで述べる。

そんな遊びがある社会でこそ、怪談は紡がれる。どれだけものを作るかという価値観から、どれだけ人生を楽しむかという価値観にシフトする時代になるという経済学者ガルブレイスの説に共感する凡さんは、ますます怪談の存在感は増すだろうという。怪談には人が生きる際にもつ実感の一部が色濃く込められている。そうであればどんなに社会が変化しようが、怪談は不滅だろうと、八雲は語る。怪談の中には真理があると。超自然的なもの、霊的なものには必ず一面の真理がある。だから幽霊の存在が疑われても、そこに表された真理に対する人間の関心がなくなることはない、と。

凡氏は八雲が語るその真理は、愛、死、畏怖、好奇心、約束、秘密、怨念などの人類に普遍的な命題ではないかと言う。それらに関する人間の関心は将来にもなくなることはないだろう、と。そうしたものを冷静に受け止めあじあう余裕が必要なんだろうな。