なんか儀礼的で心がこもらない。昨夜の続きがまた続く。
今年は正月三が日で仕事休みは終わり。四日からまた仕事。
晴天が続き、いくぶん寒いが穏やかな日が続く。北海道では記録的な大雪で、例年に倍する積雪。凍りついた路面で転倒するものが続出、交通が麻痺していると、先程テレビでやっていた。
それにひきかえ、このあたりは雪のかけらも見当たらない。
正月の来客は二日に息子夫婦が顔を見せるくらい。私の妹たちは短い三が日ではなく、来週の成人の日で終わる三連休に顔を見せるらしい。看護師をしている末の妹の休みが土曜。その日に誘いあって顔を出すらしい。

妻は元日も休みなし。

初詣は、午後に娘と近所の神社へいく予定。

昨夜は古本で買った刑事小説を気まぐれで読んだが、予定していた図書館本はあと二冊。内一冊は半分くらい読んだものの、退屈で進まない。もうやめようか。
日本語について考察した本。改めて考えると、おかしな言葉が溢れている。その語源や使われ方などを吟味し考察した本なんだが。
辞書を引くと、言葉の意味がいくつか載っている。言葉には意味がある、一見当然な気もするが。言葉の中に意味というものが存在するとしたら、それはどこにあるのか?
その意味を表すのも言葉な訳で、そのなかにもさらに意味があることになり、果てしなく続く。あるいは意味とは別の言葉で言い換えるだけではないのか。言葉を別の言葉で言い換えて、元の言葉を消し去ることですっきりする。それを意味がわかったと思うだけではないか。

著者、ノンフィクション作家高橋秀実さんは、言葉に意味があるのではなく、言葉を発することで意味をなす、のではないかという。言葉の中に意味が潜んでいるのではなく、意味をなすのだと。同じ言葉でも、発する相手や時間、状況によって意味が違ってくる。辞書にある意味はそのうちの過去の一例にすぎない。意味は無限に開かれている。

言葉の意味は確定しているわけではなくて、不明解で不明確。だから発する、話す。放す。解き放す。意味がなすものだから、様々な言語を取り入れていく。なせばなる、どうにかなる。そんな性格を日本語は持っているのではないか。日本語は曖昧だと言われるが、実際はどうにかなる、と楽観してるだけ。著者はあとがきでそう締め括っている。


さて、残る一冊は小泉八雲の『心』。日本の内面生活がこだまする作品。