他から強制されて開けたり、自分の意思でこじ開ける穴はこわばっていて、あとを引く。後味が悪い。
個人ではなく集団で開ける大きな穴もある。穴を通して外部のものが侵入する緊張をはらんだ場。人のからだが単に物質的な次元に終始するものではない。穴を通して交流することで、太古から人がそうしたものにさらされてきた根源的な自らの所在を再認する場でもある

宗教はこうした穴をいくつも持っていて、時代や地域によって、様々なかたち穴あけの技法を持っている。個人に適性なもの、集団に適性なものあるいは人が住む土地に合う穴が選ばれたりしている。しかし最近はその穴が均されて一元化してきた。それによって古くからの穴が塞がれ、身体そのものさえ一元化している。しかしこうした一元化された穴はつまらない。著者が各地を旅して体験した穴は様々ではあるが、感動すべきものだったし、各地で似たようなものに出会った。伝統とは古くさい特殊なものではなく、穴と言うかたちから見れば、むしろ普遍的なものではないか。それこそが文化の基礎体力ではないか
最近の人は穴を素通りして、言葉では話してもからだに穴が開いていない
一方で穴を通して接触し交流することはできても理解できないはずの外部のものを実体化して、穴を忘れてしまう

著者は各地の祭りなどを体験することで、そこに開いている穴を再発見し、我が身にも穴を開ける。そうすることで身体が本来持っていたものを回復しようとしているのではないか

私はそんな風に感じたが、間違っているのかな。理解できたとは言えないが、なかなか読ませる著作だった。著者はさらに『感覚のレッスン』という本も出していて、次に読んでみたいと思っている