食べ物を「残してもいいよ」をバイリンガルの子どもが

「You don't have to eat it all」と訳すのは、たぶん

そういう場面でそういう表現をよく聞くからで、

ありふれた表現ほどみんな知ってるから伝わりそう

 

でも「You don't have to eat it all.」を聞くと

「全部食べなくていいよ」に日本語変換するかな

いや、「全部食べなくてもいいよ」かな

食べてもいいんだから

 

今度また「全部食べなくてもいいよ」を英語にするとき

「も」はどうしよう?とか

直訳の教育を受けていると思ってしまいそう

 

塾講師をしていた大学生の頃に、

英作文の採点で「うん、これも◯にするね」と

直訳でない答えに点をあげたら中学生がとても喜んだことがある

 

「でも、学校ではバツになるかもよ、てかなると思うよ」

と言うと、「知ってる」って

 

もしかすると彼のような子は、

学校と、実用の英語をうまく使い分けるのかもしれない。

日本語を変換して知っている英語にして通じさせる力がありそう

 

だけど別の中学生、不登校の子に英語を教えることになったとき

「Nice to meet youがはじめましてとか意味わかんないし」

という理由で英語という科目は嫌いだしできないと宣言された。

 

彼には筋トレ形式の文法トレーニングみたいなのを始めた

とりあえず、直訳的、機械的に、例えば

I =わたしは

can = できる

と動詞 swim, cook などなどで文をたくさん作る

 

法則を身につけてもらっていき、例外表現は後回しにしたら

わかるようになって嫌いが溶けた気がする

 

だから直訳式がいいときもあるとは思う

 

そのために日本では愛されているのかもしれない

 

いつしかエラい人のエラい日本語を

英訳してほしいと頼まれたとき、

旅行中という身勝手な理由でお断りしたのだけれど

 

それを代わりに行った人の英文はきっちりした直訳で、

エラい先生はとても満足されていたご様子、

やろうとしなくて本当によかったと思った

 

かつて初診問診票の英語直訳があまりに奇妙なので、

英文版改定の提案を作ってみたところ、

たぶん「日本語のと違う」という理由で無視された

 

もしかすると日本にあふれる直訳的英文表示は、

日本人が英語を調べない、できないからでなく、

直訳でないと誠実でない、不公平な感じがするからにも見える

 

だけれども、あまり使わない言い方だったりすると

伝わりにくくなるから、変えてよいと思うのだが

 

ミシェル・トゥルニエによると

散文の存在意義はその実用性にあるよう

(La raison d'être de la prose est son efficacité.

「詩と散文」『イデーの鏡』より)

 

つまり、スリッパを頼み、スリッパがもらえればOK

 

散文と違って、詩はだめ、用が通じるという問題でない!

というのがこのエッセイの主旨だろう

 

ポール・ヴァレリーによる、画家ドガと詩人マラルメの対話が、

興味深く引用されている

 

ドガが「自分の頭には想念がつまっているから詩を書けそう」

みたいに言い、

 

マラルメは「いやいや、詩は言葉でできてるんですよ」

のように返す

 

したがって翻訳された詩は、もう別の詩となる

Un poème et sa prétendue tradiction dans une autre langue, ce sont deux poèms sur le meme thème. 

 

それはそうと、ほかにも、直訳には危うい難点がありそう

 

「ご出身はどちらですか?」ときくつもりで

What are you come from? と言った先生がいたとかで

 

「ですか」→be動詞という図式から来たのかもしれない

なんとか通じたらしいけれど、

直訳してると日本語に引っ張られやすいかも

 

逆に、帰国子女が

「クイズをあげるよ」と言った場合

ん?と思いつつ「クイズを出すんだな」とぎりぎりわかるかな

 

となると英作文練習のときは、

日本語を直訳的に「クイズをあげるよ」にしておくと

おぼえやすそうだし、日本語を自然にするのは簡単だし

 

ニック式英会話とか、筋トレと自然さの両方を取ってて、

すごくいい感じかもしれない