ふぅ。今日の視察は、少し疲れたわね。私は車を運転しながら、1つため息をついた。あら、渋滞かしら。車が急に流れなくなった。まあ、いいわ。誰が帰りを待っているわけでもない。孫の源太は、もう、みつきも前に亡くなっている。源太の両親は、何年も前に亡くなっていた。ドリンクホルダからコーヒーを飲むと、私は窓外に目をやった。外は小雨が降っているが、夕日も出ていた。六塚川は小雨の波紋を作り、夕日を照り返し、今日も綺麗だ。こうして美しい景色を眺めていると、ここ数ヶ月の間に起きたことが全て嘘だったのではないかと思う。私が体調を崩して入院をしている間に、孫の源太が死んだ。それだけでも衝撃だったのに、源太は遺体もなかった。しかも、怪異に襲われたという。初めはすぐに受け入れられなかったが、やがて思い当たることもあった。源太の両親も亡くなり方が、不自然だったのだ。小室山家は旧家だ。屋敷には、古くから伝わる物が多い。最近は、私自身も怪異との戦いの中で霊的な力に目覚めるようになってきた。こうした繋がりが、また怪異を呼び寄せているのかもしれなかった。車がじりじりと進む。やがて、渋滞の原因がはっきりとした。パトカーや救急車が何台もいて、道を塞いでいるのだ。おそらく事故だろう。そして、事故現場も目に入ってきた。どうやらトラックが、頭から川に突っ込んだようだ。川沿いのガードレールが、激しく壊れている。ちょうど運転手らしき人物が、担架で運び出されるところだった。その人物は目を見開き、ぐったりとしていて、遠目にもすでに死んでいるのが分かった。その人物の口から、こぼれ落ちるものがあった。側にいればきっと、ごぼりという音が聞こえたかもしれない。こぼれ落ちたものは、黒い泥水で粘性を帯びているようだ。私は、おやと思った。担架が運び込まれた救急車の近くに、男の子がいるのだ。運転手の肉親という感じではない。男の子の体は全身泥だらけだったが、たまたま近くで遊んでいた子という風でもない。彼がいるのは規制線の中だったし、何より彼自身が周りの大人に気づかれていないようだった。私は気になったので、ウインドウを開けた。異様なヘドロみたいな臭いが、強烈に鼻をついた。同時に、男の子がこちらを振り向く。こんなにも距離があるにも関わらず、私は男の子と目が合った気がした。男の子は、ゆっくりとニヤァと笑う。その時、右手の甲にかって知ったる痛みが走った。ああ、そういうことか。
私は腕時計を確認するかのように、右手の甲を見た。呪印の色が鮮やかな青色に輝いている。通常時の黒や危険時の赤黒い状態に比べれば、ある種綺麗とも言える。ふぅ。私は2回目のため息をついた。「痛っ!あっれ〜、またあれかな〜。」車の隣に停まっていた自転車に乗っている男性が、声を漏らした。野球帽とユニフォーム姿だったが、その声には聞き覚えがあった。男性も、右手の甲を見ている。顔は帽子の影に隠れていたが、私には確信があった。「鈴木さん。鈴木さんでしょ?」ウインドウは開いたままだったので、そんなに大声を出す必要はなかった。「あ、あれ〜、きんさんじゃないですか?こんなところで、奇遇ですね〜。」と言いながら、鈴木さんは買ったばかりの腕時計を自慢するかのように右手の甲を見せた。案の定、彼の呪印も、青白く輝いていた。私達は、にっこりと微笑み合う。緊急車両の誘導のために、車も自転車も歩行者もみんな止められてしまったので、私は車から降りて鈴木さんと話した。「今回は、あの救急車の側にいた男の子が関係していそうね。」「そうですね。ということは、この近くに他にも感染者がいるかもしれませんね。探してみましょう。あ、見つけた。」言うが早いか、鈴木さんは1人の学生風の男性に声をかける。「あの、あなた。呪印感染者ですよね。しかも、見たところ、3画目だ。じゃあ、ベテランですね。ぼくたち、ああ、こちらのお婆さまもなんですが、4画目なんですよ。良ければ、一緒に行動しませんか?」声をかけられた男性は一瞬戸惑ったが、それはいきなり話しかけられたからではなかった。「あ、あの〜、鈴木さんですよね。それと、きんさん。ぼくです。前回も一緒に怪異と戦った里山です。鈴木さんの大学兼オカルトサークルの後輩の里山由安です。」「あ、ああ、里山君じゃないか。そう言えば、その見事な逆三角形の体、見覚えがあるよ。ごめん、ごめん。なんか、初めましてみたいこと言っちゃって。」「いえ、いいんです。慣れっこですから。思い出していただけて、良かった。改めまして、今回もお2人と同じタイミングで呪印がアクティブになったこと、心強いです。」里山君は、相変わらず真面目な好青年だった。前回、もう絶対に忘れないだろうと心の中で強く思ったはずなのに、すぐに気づかなくてごめんなさいね。
「すみません。ちょっと、よろしいでしょうか?」短髪の引き締まった体付きの女性が、私達に話しかけてきた。鈴木さんがいつものように、明るく朗らかに対応する。その様子を見て、私はおやと思った。「あら、あなた。あ、ごめんなさい。話を遮ってしまって。確か、探偵社の方よね。」「はい。あ、申し遅れました。わたくし、探偵をしております髙橋美優と申します。」「そうよね。以前、取引先の信用調査をお願いしたことがあったのよ〜。鈴木さん、こちら凄腕の探偵さん。」「凄腕だなんて、そんな。まだキャリアは2年目です。」「ああ、2人はお知り合いなんですね。今、髙橋さんからお話を伺ったところ、このたび呪印に感染されたそうです。しかも、1回目。でも、探偵さんなら、調査とかも得意そうですから、安心ですね。」「おや、まあ、そうなの。新しい仲間が増えて、嬉しいわ。色々不安なこともあると思うけど、支え合っていきましょうね。あら、車が動き出したわ。じゃあ、詳しい話は、そうね、鈴木さん、工務店をお借りできるかしら。」「もちろんです。」「では、鈴木さんは自転車だから、里山君と髙橋さんは私の車に乗ってちょうだい。」工務店では、鈴木さんによる一木造りの贅沢なテーブルを囲んで作戦会議を行うことになった。「今回の感染者は4人のようですね。」と鈴木さんが切り出したところで、カランカランとこちらも鈴木工務店こだわりの鈴付きのドアが開いた。「鎹チェック良し!このドアは安全だ!呪印者発見良し!これで今回も戦える!」と言って、指差し確認をしながら男性が入ってきた。「あら、煤藤さんじゃない。」「あ〜、煤藤さん。」「あ、煤藤さん。お久しぶりです。」私、鈴木さん、里山君が三者三様の迎え方をする。「こんにちは。いや、そろそろこんばんはか。きんさんに、鈴木さんに、えーと。」「里山です。」「そう、里山君。あとお一人は、初めましてで合ってますよね?」「ええ、こちら、探偵の髙橋さん。1回目だそうよ。」「ほう、それは。」と答えると、煤藤さんは青白く輝く呪印を見せた。
作戦会議は、順調に進んだ。みんな怪異に慣れているので、どこから手をつけるべきかが何となく見えているのだろう。髙橋さんは、なるほどを連発しながら、成り行きを見守っている。「あの運送会社、たしか有名なところよね?」「ええ、あれは、白猫さんですね。」「じゃあ、その辺りから聞いていきましょうか?」私と里山君が、そんなことを話す。そう言えば、と里山君が続けた。「この辺りの救急病院と言えば、たぶん、ぼくの元カノが入院してるところぐらいしかないんじゃないかな。これから、ちょっと行ってみます。鈴木さんも一緒に来てくれませんか?」「いいのかい?ぼくが行っても?」「あ、はい。さすがに元カノの病室には、ぼく1人で入りますけど、鈴木さんには看護師さんへ聞き込みなどしていただけたらと思います。」それならば、と私が続ける。「私は、白猫運送社に詳しい方に聞いてみるわね。煤藤さん、髙橋さん、一緒に来てくださる?」「あ、私は今夜は父と食事の約束がありまして。ごめんなさい。」そう髙橋さんが謝るのに対して、私は首を振って答えた。「そんな、謝らないで。ただ、一緒だと頼もしいなと思っただけだから。じゃあ、こまめに情報を共有し合いましょう。あと、怪異は突然襲ってくるから気をつけてね。」私と煤藤さんが、私の友人宅に着く前に、鈴木さんと里山君から連絡があった。「やっぱり元カノの病院に、運び込まれていました。元カノと看護師さんの話では、運転手は川に転落した車の中で溺死したそうです。不審な点が2つほどあるそうで、1つはブレーキを踏んだ後がなかったようです。警察では、自殺の線もあると考えているようですね。もう1つは、運転手は大量の泥水を飲み込んでいたそうなのですが、その量が尋常ではなかったそうなんです。今回は、この泥水がキーワードになりそうだと、鈴木さんが言っていました。」「里山君、ありがとう。鈴木さんにも、よろしく伝えてちょうだい。こちらも、今、着いたわ。何か分かったら、後で連絡するわね。」私が電話を切るのと、司城邸の大きな門が開くのはほぼ同時だった。
「やあ、きん。君が突然訪ねてくるということは、また何かごたごたに巻き込まれたね。」「さすが、明、よく分かるわね。」司城邸の執事が出してくれた紅茶を飲みながら、私達は話をしている。「今日は、前に来た鈴木さんとは、違う人だね。」「ええ、こちらは煤藤さん。今回の件に関係しているから、ついてきてもらったの。あ、鈴木さんも今、別のところに調査に行ってるわ。」「そうなのか。彼にはあの後、仕事を頼んだんだけどね。腕が良くて、速いね。」「あら、そうだったの。」こんなやり取りを、煤藤さんがどぎまぎしながら見ている。「それで?今回は、どうしたのかな?」「ええ、それなんだけど。たしか、明は白猫運送会社に投資してたわよね。」「ああ、そうだったね。」「実は、今日、白猫運送会社の運転手が六塚川の川沿いで事故にあったの。私達、それを目撃したわけなんだけれど、実はちょっと引っかかることがあって、その運転手の最近の様子が知りたいの。」「最近の様子かい?聞いてみることはできると思うけど、一体どんなことが知りたいんだい?」「そうねぇ。」私が少し悩んでいると、煤藤さんが言った。「男の子です!何か、こう、男の子と関連したような出来事はなかったか聞いてみてください。」私は驚いたのち、にこりとして煤藤さんを見た。前回の事件の時は、彼はずっと怪異の存在を認めようとしなかったが、最後の最後に自分の心と折り合いをつけて、怪異と戦った。そんな彼が、今は前向きに怪異のことを調べようとしている。それだけではなく、事故現場を回想することで、関連する手がかりを見つけるという経験者ならではの発想をしているのだ。「男の子か。わかった。ちょっと待っていてくれ。白猫の社長に電話をかけてみよう。」「お願いね。」待っている間、煤藤さんは、部屋を歩いて、壁にかかっている皿などを指差しながら安全を確認していた。防災マニアなのは、変わってないのね。
明は、思っていたよりも早く戻ってきた。「いや、たまたま、社長にすぐに繋がったから、良かったよ。まあ、さすがに社長は、その社員と直接の接点はなかったから、聞いてもらえるように頼んだところ、こちらもすぐに取り掛かってくれてさ。で、わかったことと言うのは。」運転手は20代男性で、半月前、配送中に事故を起こしかけたということだった。その日は、大雨で視界が悪かった上に、目の前にいきなり男の子が飛び出してきたらしい。運転手は慌ててハンドルを切って事なきを得たが、危ないところだったという。運転手が窓越しに怒鳴ると、男の子はニヤァと笑って走り去って行ってしまったそうだ。それからというもの、運転手はその男の子と思われる子どもに、朝な夕なに付きまとわれていたということだ。「しかも、その男の子は、いつもずぶ濡れで、片方の足は靴を履いていなくて、片方の足は泥だらけの運動靴を履いていたそうだよ。まあ、周りの同僚は、そんなの逆恨みからくる嫌がらせだから、気にするなと言っていたらしいがね。と、まあ、聞けたのは、こんなところかな。どうだろう?何かの役に立ったかな?」「ええ、とっても。ありがとう。」「しかし、また、随分と大変そうな話だね。きん、君のことが心配だよ。」「うふふ。その言葉が何より嬉しいわ。また何かあったら、頼るわね。」「ぜひ、そうしてくれ。君の力になりたい。」司城邸を後にして、煤藤さんを彼の自宅に送り届け、私も家に戻った。玄関を抜け、洋室に行き、クローゼットのドアを開けようと、ノブに手をかけた時、そこに何か黒いものがこびりついているのに気づいた。顔を近づけてみると、それは黒い泥の塊で、強い異臭を放っていた。なるほど、この手の怪異ね。今頃、他の呪印者達も、泥関係のものに襲われているに違いない。このように、怪異はじわりじわりと私達に近づいてくるのだ。泥は汚れを落とすのが面倒だから、嫌ね。
翌日、私のオフィスビルの一階にあるレストランにみんなで集まった。前回の事件の時に、最後の舞台となったあのレストランだ。鈴木さんが何を注文するか悩んでいたので、私は前と同じステーキをおすすめした。そして、怪異の襲来について話し合った。「ぼくは、病院の帰り道に物凄いきついヘドロの臭いを嗅ぎました。」と里山君が幾分緊張した面持ちで言うと、鈴木さんが続けた。「ぼくは、家の中が大変でしたね。まず、玄関に水溜まりができていて、そこを通って歩いたような後が、廊下から部屋にまで続いていたんですよ。もう、あちこち泥だらけ。しかも、おかしなことに、左足は運動靴の足跡なのに、右足は靴を履いていないっぽいんですよね。でも、これは司城さんの教えてくれたことと符号するかな。まあ、早速配信しましたけどね。今までぼくのことを疑っていた視聴者達も、ちょっと見直してくれたみたいです。」いつものように笑ってはいたが、鈴木さんの表情も緊張していることに私は気づいた。髙橋さんが、ため息混じりに話し出す。「廊下と部屋だけなら、まだいいですよ。私なんて、廊下どころか部屋中、しかもクローゼットの中まで黒い泥まみれでしたよ。はあ、最悪。」髙橋さんも掃除が面倒だと感じているみたいだが、恐怖を感じている様子ではなかった。今日、一番恐怖を感じているのは、煤藤さんだろう。かなり怯えた様子で、語り出した。「帰宅後、洗面所で手を洗おうとしたんです。すると、蛇口から黒い泥水がどばどば出てくるんです。慌てて締めたんですが、止まりません。しかも、めっちゃ臭いんです。困りました。まあ、幸いぼくの家には防災用備蓄のペットボトルの水が何本もありますからね。そちらで手を洗いました。これで終わりかなと思ったら、声がどこからともなく聞こえてきました。その声は、少年の声で、『ぼくの・・・・返して。』と言っていました。」明らかに怯えているし、内容もかなり酷いものなのに、煤藤さんが話すと、ちょっとコミカルになるのは、なぜかしらね。
あっ、と小さくて短い叫び声を髙橋さんがあげた。みんなが、一斉に髙橋さんを見る。「今の話を聞いて、思い出しました。昨日の夜、父と外で食べた時、父から聞いた話があるんです。父は学者で各地を講演して回ってるんですが、最近、共通した内容の都市伝説を聞くそうなんです。それは。」雨の日に、目の前に運動靴の男の子がいつの間にか立っているという話だった。男の子は5、6年生ぐらいで、全身泥だらけだという。彼にニヤァと笑いかけられると、数日後に沼に引きずられて死んでしまうとか。噂によると、彼は生前いじめられていて、いじめっ子が沼に捨てた彼の右足の運動靴を拾おうとして、溺れ死んでしまったということだ。私達は顔を見合わせて、頷き合った。「すみません。もう少し早くお話するべきでしたね。父のお喋りの1つだと思って、聞き逃してしまいました。」「いいえ、素晴らしいタイミングだと思うわ。これで、私達は、新たな手がかりを得たわね。今までの怪異も、都市伝説が元になっていて、それが何らかの形をとったものが多かったのよ。ありがとう。」私がお礼を述べると、「それならば、彼女が知ってるかもな〜。」と煤藤さんが呟いた。みんなと話して、だいぶ落ち着きを取り戻しているようだ。周りの視線に気づいて、煤藤さんは説明をした。「あ、彼女というのは、ぼくの防災仲間です。以前、一緒に被災したことがあって、それ以来防災情報を交換してるんですよ。彼女も出張が多いから、各地の都市伝説に詳しいかも。」「じゃあ、私も行くわ。髙橋さんは、どうかしら?」「そうですね。父から聞いた話と比較できるかもしれないので、私も行きます。」「それじゃあ、ぼくは、、」と鈴木さんが言う。「それじゃあ、ぼくは、森田先生に会いに行こうかな。あの先生、やっぱり教育関係者だけあって、都市伝説に詳しいし、それに前回の事件の時の再会の約束、まだ果たしてないんですよ。里山君、今度は君がぼくについて来てくれるかい?」「分かりました。行きます。」
煤藤さんの防災仲間である桧澤さんは、「知ってるよ。」と言い、さらに「色々なところで聞くし、私が小学生の時にも聞いたことあるよ。」と続けた。「でも、場所によって、だいぶ違うのよね。沼に引きずりこむものとか、町中を引きずり回すものとか、あと、襲われた時に、自分の右足の靴を遠くに投げてその隙に逃げればいいというものもあるわ。」と桧澤さんの詳しい話を受けて、私と髙橋さんは相談し合った。「なるほど。対処法があるということでしょうか。この話は、経験上、参考になりますか?」「そうね。今までは直接ではなくても、対処法が参考になることはあったわね。とにかく、これである程度の目星はついたようね。」私達が相談している間、煤藤さんは桧澤さんと積もる話をしている。「お互い、生存確認ができたね。でも、危ないことに巻き込まれてるみたい?」「いや、防災と同じで、真剣に備えればいいからね。やり甲斐があるよ。」大切な人と絆を確かめ合うことができれば、誰しもが希望を持てるものね。私達は帰り道に、鈴木さんと里山君に連絡を取った。鈴木さんの声は、随分と緊張がほぐれていた。「いやぁ、参りましたよ。会うなり、元気ないじゃないかなんて言われて。それに、こないだの事件の時に絶対会いましょうとか言っていたのを、余計心配するだろ!と怒られちゃいました。やっぱりいい先生です。それで、先生が知っていた話なんですが、男の子に彼が履いているのと同じ色の右足用の運動靴を渡すと災いから逃れるというものでした。しかし、色が違うと、すぐに引きずり込まれてしまうようです。まあ、それで里山君とも話したんですが、ぼく達、泥だらけの男の子しか見てないじゃないですか?ちょっと配信で、視聴者に知らないか聞いてみますね。あ、明るく配信しろって先生から言われたんだった。でも、明るく配信して、みんなに信じてもらえるかな〜。」鈴木さんもやっぱり大切な人に会って、希望をもらったようね。
その夜、私は寝ていると、気配を感じて目を開けた。体を動かそうとすると、まったく動かない。まぶたを閉じようとしたが、閉じられなかった。動かせるのは、眼球のみのようだ。どこからか、びちゃびちゃという音が聞こえてくる。足元の方を見ると、背丈の小さい黒い人影が見えた。やがて、つま先に掛け布団越しに、何かの重みを感じた。重みは、手のような足のような感触で、足の甲、脛、ひざ、太もも、と徐々に這い上ってくるような感覚がある。私は、自分が汗をじっとりと掻いているのを感じた。感じるだけで、体は相変わらず動かせない。鼻腔を、強いヘドロの臭いが襲う。腰、脇腹、みぞおち、胸、わき、肩まで来ると、いったん動きが止まった。かと思うと、ぬっと目の前に男の子の顔が現れた。その顔は、私の顔を覗き込むような仕草をしたが、目の部分には何もなく、くぼみ落ちていた。私は絶叫して、意識を失った。翌朝、呪印者全員が、私の家の近くの公園に集まってくれた。私の様子がおかしいのを心配してくれて、見に来てくれたのだ。家の中は、ヘドロ臭の泥まみれだったので、公園になった。聞くところによると、昨晩は、全員が同じ災いに遭遇したそうだが、私が一番精神をやられていた。「目が!目がなかったのよ!」「きんさん、大丈夫ですよ!しっかりしてください。怪異のいつもの手じゃないですか。」と、鈴木さんが励ましてくれる。煤藤さんと里山君は、「あのきんさんが、あんな風になるなんて、やっぱり怪異は侮れないね。」と話し合って、それぞれ頷いている。私はだんだんと落ち着いてきたので、「ありがとう。皆さん、もう大丈夫よ。」と言った。煤藤さんがほっとして、怪異と呪印について語り始める。「やっぱり災害も怪異も、油断してはいけない存在なんだな。呪印って、ちょっとかっこいいなと思っていたところなんだけど。」「そうですか?私は、ファンデーションで隠そうかと思ってたんですが。」と髙橋さんが反論する。「でも、隠しちゃうと他の呪印者に気づいてもらえないよ。どうせ、呪印者以外には見えないんだから、隠さない方がいいんじゃないかな。」珍しく、煤藤さんが饒舌だ。
髙橋さんと煤藤さんは、呪印談義を続けている。「なるほど。ということは、これは、呪印者同士を確認するサインでもあるわけですね。」「そうなるね。呪印者の絆を示すものだね。」「絆か〜。分かります、それ。」と里山君が、話に割って入った。「呪印者同士ではないですが、呪印のおかげで自分の大切な人を強く意識するようになりました。災いのおかげで、ちょっと邪険にされつつも、元カノに会いに行くきっかけと勇気がもらえますし。まあ、いつも私に構わなくていいんだよって言われちゃいますけど。でも、今回は『怪異に襲われたら、隣のベッドが空いてるよ。』って言われて嬉しかったです。」普通なら何をのろけてるのかと思われるような回想だが、呪印者なら分かる。大切な人の存在が、いかに大切かを。そして、この状況が、自分の命運が尽きるとともに、大切な人に受け継がれていくのだから。そうか!と煤藤さんが、手を叩く。「もしかしたら、怪異の側も繋がりを求めてるんじゃないだろうか。怪異側の繋がりを求める想いを、ぼくらが都市伝説を鵜呑みにすることで封じ込めてしまっているとしたら?ぼくらが、彼らの声に真剣に耳を傾けていなかったとしたら?これだけ無数のバリエーションが、都市伝説にはあるんだ。だったら、ぼくらが新しく作ってもいいんじゃないだろうか?」煤藤さんが熱い!こんな熱い煤藤さんは、初めて見た。いえ、前から煤藤さんの熱さは、時折感じていたけど、こんなに前面に出してくるのは見たことなかったわね。里山君がその熱量にほだされて、やや興奮気味に答える。「いいですね。前回も、ぼくらはやったじゃないですか。きんさんと煤藤さんのネットワーク、鈴木さんの配信を駆使して、広めたらいいんですよ。」「あ、言い忘れてたけど、ぼく、怪異との戦いに専念するために、会社辞めたんだ。」「え?今ですか?」煤藤さんの告白は確かに驚きだったが、私達は新しい都市伝説を広めることに成功した。
新しい都市伝説は、こうだ。ある日、川が氾濫して、男の子は片方の靴を流されてしまった。男の子は靴を取ろうとして、溺れてしまった。周りの人達は、暴れ狂う川にどうすることもできず、男の子を見殺しにした。男の子は、それを恨みに思っている。男の子を川から助け出し、彼の寂しさを癒やすことができれば、災いから逃れられるだろう。私達は、すぐに儀式の準備に取り掛かった。川の氾濫に備えて、鈴木さんが筏を作る。さすが明も認める仕事ぶりで、あっという間に完成してしまった。里山君が用意した大漁旗に、煤藤さんが勾玉模様の呪印を大きく描き込む。そう、これは呪われた証なんかでは決してないのよ。私達の絆を表す大切なマークなのよね。私達は、筏を六塚川に浮かべる。途端に、大雨が降り出し、川が溢れ始めた。遠くに、子どもの手が突き出ているのが見える。私は手を伸ばしながら、思わず「源太ー‼︎」と亡くなった孫の名前を叫んでいた。その瞬間、私はなぜ昨晩の災いで、私だけが発狂したのかが理解できた。私の今の大切な人は明、それは変わらない。でも、もちろん、源太のことも愛してた。そもそも、源太が私のことを大切な人だと思っていたからこそ、私に呪印が受け継がれているのだ。筏が男の子に近づく。もう少し。もう少し。もう少し。がしっ!掴んだ!この手は、絶対に離さない!数分後、私達は川岸で泣きじゃくる子どもを見守っていた。「ぼくなんて、ぼくなんて、死んだって、誰も気にしないんだ。ほっといてよ。」髙橋さんが、そっと男の子の側に寄った。「誰も気にしないなんてこと、あるわけないじゃない。」髙橋さんは、優しく男の子を抱きしめた。「ぼく、泥だらけだよ。ヘドロの臭いがするよ。みんな、ぼくのこと嫌がるよ。」「嫌じゃないわよ。だって、あなたと私達は繋がってるもの。」「繋がってる?」「そう、私達ね、呪いは繋がりだと思うことにしたの。きっかけはなんであれ、こうしてあなたと知り合えて、あなたを水の底から救い出せたことには、きっと意味があると思うのよ。」「・・・」「ね、手を出してくれる?利き手はどっち?そう、右手ね。」髙橋さんは油性マジックをポケットから取り出して、男の子の手に何かをかいた。「ほら、お姉ちゃんの手にあるマークと一緒!これ、ここにいる、みんなにもあるのよ。仲間であることを示しているの。これで、あなたも仲間ね。」私達は、手を前に出して呪印を見せた。「仲間。仲間。ふふふっ!お姉ちゃん達って、面白いね。ありがとう。」そう言って、男の子は笑った。それは決して、ニヤァという笑いではなく、魂の底から出たと思われる素敵な笑顔だった。男の子は、ふっと消えた。
数日後の夕暮れ時、私はまた六塚川沿いの道で、車を運転していた。今日は雨は降っておらず、車もスムーズに流れている。歩道に、見知った背中を見つけた。その男性は、ガードレールや標識を一つ一つ指差しながら、歩いている。その指先が、彼の甲にも向いたことを私は見逃さなかった。私はうきうきして、彼の隣を走り抜けた。さらに、その先で自転車に大きな旗をつけている男性を見つけた。その旗には、大きな勾玉模様が描かれている。野球帽とユニフォームを身に着けた彼は、川の近くで遊んでいる子ども達に声をかけていた。「おーい、あまり川の近くで遊ぶんじゃないぞー。」子ども達は彼の旗を見て、げらげらと笑う。「なんだい、そのおかしな旗はー。」けれども、彼は子ども達に手を振って、胸を張ってペダルを漕いだ。赤信号で車を止めた時、私は右手の甲を眺めた。怪異を助ける仲間達。それって、本当に素敵な発想よね。今日は見かけなかったけど、彼も彼女もどこかで、きっと今の私と同じことを感じているに違いない。呪印は事件が終わったことを表す黒色になっていたが、夕陽を照り返して、美しい赤色に輝いて見えた。(完)