今日は、大学生のサークルに呼ばれている。68歳にもなって、大学生に混じっておしゃべりできるなんて、ちょっとウキウキだわ。私は滅多にしないおしゃれをして、玄関を出た。「行ってくるわね。」玄関に飾ってある、孫の源太の写真に声をかけるのを忘れなかった。孫の源太は、もう死んでいる。呪印という恐ろしい怪異に遭い、化けモノに襲われて殺されたのだ。その呪印は、今は私の右手の甲に刻まれている。勾玉模様をしている奇妙な印だ。初めは1つだけだったが、今は2つある。なぜならば、私自身も怪異を経験したからだ。私も危うく殺されるところだったが、一緒にいた仲間達に助けられて生き延びることができた。今日は、その仲間の1人である鈴木さんの大学時代に所属していたサークルに呼ばれたのだ。2週間前、鈴木さんには私が経営する会社に来てもらった。セミナーの講師として、お招きしたのである。セミナーのタイトルは、「SNS時代における情報の取捨選択について」だった。本当は鈴木さんも私も、怪異についてのレクチャーを予定していたのだが、直前に秘書に止められた。流石に、社員がびっくりするだろうという理由で。まあ、実際に社員に伝えたいことは、伝わったと思うから、良しとしようかしら。前回の件から、私達は怪異は噂を力に変えることを学んだ。その怪異を相手にするには、数多ある情報の中から正しい情報を見抜く力が必要だった。この力はビジネスにも、もちろん大切な力だ。私の目論見としては、私の会社をさらに大きくして、怪異と戦えるものにしたいと考えている。鈴木さんは鈴木工務店の木工職人という肩書きだが、持ち前の明るさと人当たりの良さで、セミナーを大成功に導いた。今日は、反対に私が、鈴木さんの後輩相手に講師を務める。タイトルは、「すぐそこにある怪異の危機」。鈴木さんの所属していたサークルは、オカルト研究会なので、これでいいのよ。
「というわけで、小室山きんさんのお話でしたー。」鈴木さんの締めの言葉で、オカルトサークルのメンバーは口々に、すごいね、やばいねと感想を話し始める。その内の女子学生2名が、私に近寄って来て質問をした。「あの、私、深谷依美って言います。大変、興味深いお話でした。あれって、本当にあったことなんですか?」私はにこやかに頷く。「えー、すごい。あ、私は、長田蓉子です。あの、化けモノをやっつけた時って、怖くなかったんですか?」「そうですわねぇ。怖いという思いは、ありませんでしたねぇ。どちらかと言えば、やっつけてやりたいって思いでしたよ。」私の答えを聞くと、2人は声を揃えて、きゃー、かっこいー、と叫んだ。その後ろから、「ぼくも混ぜてもらっていいかな?」と遠慮がちに喋る男子学生が現れた。深谷さんが振り向いて、「あ、うん、えーと、さ、里山君だよね。もちろん、いいよ。」と輪の中に入れた。私は、深谷さんが言い澱んだ理由がなんとなく分かった。深谷さんは里山君を敬遠したのではなく、たぶん名前を忘れていたのだ。初対面でこんな印象を抱くのは失礼だと思うが、里山君はとても影が薄い感じで、覚えにくそうな顔立ちをしていた。「小室山さん、初めまして。実業家のあなたのお噂はかねがね聞いておりましたが、まさかオカルトにも精通しているとは存じ上げませんでした。握手をしていただけませんか?」そう言って、里山君は右手を差し出した。私は彼がなぜ握手を求めてきたのかを、すぐに理解し、そして絶対に彼の名前を忘れることはあるまいと思いながら、力を込めて握手を返した。結ばれた私と彼の右手の甲には、同じ呪印があった。どちらも黒くなっているということは、お互い災いを経験した後だということだ。彼の場合、勾玉が1つなので、一度だけ災いを経験したということになる。この呪印は、呪印を持つ者同士しか見ることができない。彼は、私がスピーチ中にわざとらしく手の甲を見せるような仕草をしたことに反応して、挨拶に来てくれたに違いなかった。共に災いと闘った仲間ではなかったが、私達は言わば同志だった。深谷さん、長田さん、里山君、私は、その後も、私の体験談の詳細や最新オカルト事情なんかを話題に楽しく語りあった。ふとした瞬間に、深谷さんが長田さんのカバンを指差す。「ねぇ、蓉子、何それ?かわいいね。」「お、さすが、依美ちゃん。お目が高い。これは、今流行ってるお守りなんだよ。手作り風なのが、人気みたい。」「へ〜、知らなかった。いくらなの?」「これ、実は高いんだよ。最初は1万円で売ってたんだけど、安くなってて3千円。」『3千円!?』長田さんの話を聞いていた3人は思わず大きな声を出した。深谷さんや里山君は驚いて長田さんに色々と突っ込んでいたが、私は微笑みながら、頭の中でこれはちょっとしたビジネスチャンスかしらと思案していた。
翌日、我が家に一冊の封書が届いた。封書の表にも裏にも、何も書いていない。怪しいと思ったので、自動のレターオープナーを使って開けてみたところ、中から昨日長田さんが持っていたようなハンドメイド風のお守りが出てきた。紐の部分を持って、ぶら下げてよく見てみる。特に、変わったところはない。昨日のオカルトサークルの参加者の誰かが、私がお守りを物欲しそうに見ていると思って、気をきかせてくれたのかしら。そう思っていると、突然右手の甲に痛みが走って、私はお守りを取り落とした。この痛みは前にも覚えのあるものだったので、改めて甲を確認するまでもなかった。私はニヤリとして、「ふふ、今回はこう来るのね。」と独り言を言った。すぐに鈴木さんに連絡を取ると、やっぱり鈴木さんも呪われていた。中川先生にも連絡をしてみたが、連絡が取れなかった。呪われていなければいいんだけれど。鈴木さんが他の呪印者に心当たりがあるというので、一日のスケジュールをキャンセルして、鈴木工務店に向かうことにした。さすが、鈴木さんね。工務店には、昨日握手した里山君もいた。「あら、あなたもアクティブになったの?」私が聞くと、彼は、はいと答えながら、右手の甲を見せた。勾玉が1つ増えて、さらに青白く光っている。これは、現在進行形で災いが降りかかっていることを示している。そして3人は、無言でハンドメイド風お守りを見せ合う。これで今、私達は同じ災いに巻き込まれていることが確かめられた。ふふふ、呪印経験者の阿吽の呼吸ね。
「それで、心当たりというのは里山君のことかしら。」私が尋ねると、鈴木さんは驚いて答える。「すごいですね、きんさん。一度会っただけなのに、里山君の名前をもう覚えてしまったんですね。」里山君の名前が覚えられないのは、あのサークルではもはや鉄板のことなのかしら。「それは、呪印者同士ですもの。」私は笑顔を里山君に向け、里山君も笑顔を返してくれた。それを見た鈴木さんも笑顔になり、話を続けた。「それで、心当たりがあるって話なんですが、里山君ではないんです。実は、昨晩うちの工務店の前で事故がありましてね。何かから逃げるように走っていた男性が、車に轢かれたんです。それで奇妙なのが、2点。1つは、その男性が血に染まった例のお守り袋を握りしめていたということ。もう1つは、その男性の遺体の耳や鼻から、たくさんの虫が這い出してきたということなんです。」「それは、今回の災いに大いに関係がありそうね。それで?」「それで、そこに居合わせた2人が、もしかしたら呪印してるんじゃないかなと思うんですよね。その2人、いつもうちの店頭の自販機で飲み物を買って立ち話をしているんですが、1人はすでに一画刻まれていました。もう1人は刻まれていなかったんですが、流れ的に今はもう。」「そうね。その2人も、今回の災いに巻き込まれている可能性は高いわね。連絡は取れるかしら?」すると、鈴木さんは我が意を得たりといった満面の笑みを作った。「きんさんなら、そう言うと思って、すでに無理を言ってここに来てもらえるように頼みました。そろそろ、いらっしゃるはずです。」私と里山君は、鈴木さんに拍手を贈った。
カランカラン。私達の拍手が終わるのを見計らったかのように、古風なドアベルを揺らして工務店に入って来た2人がいた。私、この工務店のこういうこだわりが結構好きなのよね。入って来た1人は女性。目つきが鋭く、機微な動きができそうな体つきをしている。きっと、警察関係の方ね。私は、そう当たりをつけた。もう1人は男性で、こちらは対照的にふらふらとしている。目の下に大きな隈があり、明らかに寝不足に見えた。私は、素早く2人の手の甲を確認する。それは女性の方も同じだったみたいで、挨拶抜きに言った。「ここにいるのは、皆さん、呪印者みたいですね。ならば、話が早い。あ、そこにいるのは、えーと、里山君ですね。あなたとは、2回目の縁になりますね。さて皆さん、おそらくハンドメイド風のお守りをお持ちのことと思いますが、これを私開けてみました。」この言葉に、眠そうな男性以外の全員が驚く。「あ、開けたんですか?」「あなた、勇気がおありなのね。」「さ、さすが秋山さんです。」里山君に秋山さんと呼ばれた女性は、少し苦笑した。「開けてみたところ、中からは端がちょっとだけ焦げた朽ちた木片が出てきました。それだけならまだ良かったんですが、その時に後ろから誰かに手で目隠しをされました。そして、耳元で、みぃつけたと囁かれました。慌てて振り向くと、5、6才の男の子が立っていて、ふっと消えてしまったんです。皆さんなら、これが嘘ではないことは、お分かりですよね。」鈴木さん、里山君、私はそれぞれに頷いたが、まだ名前を知らない男性は疑問をつぶやいた。「み、皆さん、何をおっしゃっているんですか。の、呪い、そんなもの、あるわけないじゃないですか。ぼ、ぼくは大地震を経験してるので、知っているんです。お守りより、ヘルメットの方が絶対に役に立ちます。鈴木さん、こんな話のためにぼくを呼んだんですか?ぼくには納期が迫っているタスクがあって、こんなことをしている場合じゃないんです。あの、もう会社に戻ってもいいですか?」
私達が説得を試みようとすると、秋山さんが手で制止した。「大丈夫です。彼、煤藤君のことは、私に任せてください。彼は、仕事でちょっと疲れているだけですから。夜中、いつもこの店の前で立ち話をしているので、煤藤君のことはよくわかっています。さあ、里山君も一緒に来てください。ここからは手分けをして、情報収集に当たりましょう。何かわかったら、ここに連絡をください。」秋山さんが名刺をくれたので、私も渡した。ほら、やっぱりね。秋山さんは、現役の刑事さんだった。「ああ、これは有名な実業家の小室山きんさんでしたか。お会いできて、光栄です。お2人には、よろしければ、このお守りの噂について探って欲しいんです。お願いします。では、また。」そう言うと、秋山さんは2人を連れて慌ただしく出て行ってしまった。残された鈴木さんが、どうしましょう?という目を向けてきたので、私はサムズアップして応えた。私は彼を自分の車に乗せて、工務店から30分ほど走った。そして、ある豪邸の前に乗り付ける。「きんさんのお宅に負けないぐらい、豪華なお屋敷ですね。別宅ですか?」「いいえ、ここは私のお友達の家なの。」部屋に通されると、屋敷の執事が紅茶を用意してくれたので、それを飲んで家主が現れるのを待った。「これはこれは、小室山さんじゃないか。ようこそ。今日は、どうしたんだい。」家主が現れて、笑顔で迎え入れてくれる。私は、精一杯甘い声を出した。「あら、明さん。小室山さんなんて他人行儀やめてちょうだい。いつものように、きんって呼んで。ごめんなさいね。急に。」「はっはっは。ごめんよ、きん。こんな若い男の子を連れてくるからさ。ちょっと嫉妬しちゃったじゃないか。それと、君が急に来るのは、いつものことだ。驚いちゃいないよ。」「あら、嫉妬だなんてご冗談。紹介するわね。こちら、私の投資先の鈴木工務店の若旦那。」鈴木さんが目を丸くしながら、挨拶をする。
家主の名前は、司城明。私の若い頃からの友達で、実業家仲間でもある。私と同い年だが、肌には張りがあり、オールグレイの髪もまたカッコイイ。彼はとても朗らかな性格で、「あ〜、鈴木工務店さん。聞いたことあるよ。何でも、とても丁寧な仕事をされるそうだね。きんに認められるなんて、すごいじゃないか。ぜひ、今度うちの仕事もしてもらおうかな。」と挨拶を返した。「はい。ありがとうございます。うちの売りは、とにかく木材の性質を最大限に引き出すところにありまして・・・」私は鈴木さんが営業を始めるのを、耳打ちしてやんやりと止めた。「そのお話は、また後でね。今は、他に聞くことがおありでしょ。」私は改めて司城さんに向き直って、話を切り出した。「実は今、ちょっとしたごたごたに巻き込まれていてね。明の手を借りたいの。ほら、これを見てくれる?」「お〜、これは今、若者の間で流行ってるお守りだね。」「さすが、明。ビジネス的に、若者の流行に詳しいと思ったのよ。どんな物かご存知?」「ああ、そうだな。それは願望成就のお守りとして、とにかく人気が、あるそうだ。繁華街の露店ネットワークで扱っているそうだよ。」私はすぐに、秋山さんにメッセージを送った。結局のところ、私達は紅茶を3杯もご馳走になってしまった。鈴木さんも、営業ができて満足そうだった。帰り際、司城さんが心配してくれた。「きん、ごたごたの件、大丈夫かい?もし、もっと手伝えることがあったら言ってくれ。」「明、ありがとう。あなたのそういう優しいところ、昔から大好きよ。」照れる司城さんに手を振って、私は車を発進させた。次は、鈴木さんの恩師、森田先生の所に向かうことにした。森田先生は、高校の先生で生徒の人気者だ。当然、流行ってるお守りについても詳しいだろう。森田先生の所に着くまでに、秋山さん達の方でも、何か進展があると良いのだけれど。
森田先生の現任校に向かう車内で、鈴木さんが司城さんのことをしきりに褒めていた。「いやあ、爽やかな方ですね。」「そうでしょう。」「昔からのお知り合いということでしたが、どんなご関係なんですか?」「明とはね、昔、結婚したくてもできなかったの。そして、今は大切な人。」「ええっ!きんさんの大切な人は、孫の源太君じゃないんですか?」「あら、大切な人というのは、普通生きている人のことを指すものよ。源太のことは、もちろん大好きだったわよ。」「はあ、なるほど。」鈴木さんが、どぎまぎしていると秋山さんから電話がかかってきた。運転中なので、ハンズフリーで応答する。「あー、秋山です。先ほどは、情報をありがとうございました。いただいた情報をもとに、繁華街の露店に聞き込みをしてきました。店主の話では、このお守りに入っているのは白山のご神木だそうです。」「ご神木?」「はい。それから、これは道すがら話していて分かったことなんですが、私の元同僚の佐藤という者と里山君のサークル仲間の深谷さんが親戚であることが判明しました。最近、佐藤からその親戚の子の様子がおかしいと聞いていたので、今から深谷さんの所に行ってみようと思います。」「わかったわ。こちらは、今から鈴木さんの高校の恩師に会って、お守りの噂についてもう少し調べてみるつもりよ。こちらは、異常はないわ。そちらは、どうかしら?」すると、そこまでスラスラと話していた秋山さんが口籠った。「何かあったのかしら?」「いや、まあ、大したことではないんですが、煤藤さんが露店の店主に幸薄そうと言われて落ち込んでまして。それから、煤藤さんと里山君が強烈な異臭を嗅いだらしくて、精神的にダメージを受けています。」「そうなの。でも、それは大したことよ。知っていると思うけど、怪異はそうやって襲ってくるの。徐々に、私達を蝕んでくるのよ。まあ、店主の言葉は違うかもしれないけど。」くれぐれも気をつけましょうとお互いに言い合って、通話は終わった。鈴木さんが、感心したように言う。「すごいですね、きんさん。すっかりオカルトのプロですね。」「あら、何を言ってるの。全部、あなたの受け売りじゃない。」私は笑って、アクセルをさらに踏み込んだ。
森田先生は、出張中だった。電話も繋がらないということで、私達は諦めて帰ることにした。鈴木さんも私もお腹が空いてきたので、私のオフィスビルの一階のレストランで食事をして待つことにした。秋山さんにメッセージを送ったところ、案外と早くやって来た。良かった。3人とも一緒だわ。煤藤さんの目がより虚ろになっているのが、若干気になるけど。3人は、すごい情報を仕入れてきていた。里山君が、かいつまんで説明をする。「依美ちゃんは、ぼくたちに会うなり、見つかっちゃったと言いました。聞くと、今回の噂を流した張本人だと言うのです。理由を尋ねると、好意を寄せる青年が3人の悪い仲間に脅されて、白山の神木を削ってしまったらしいんです。数日後、彼は鍵のかかった自室で、全身を蟲に喰われて死んでいる状態で発見されました。彼女はそれを白山の山神の祟りだと思い、古文書を調べたそうです。そして、その伝承を利用してお守りの噂を流したとも言っていました。これが、その古文書です。」私達は、レストランの広いテーブルに古文書を広げた。私は広げながら、みんなに、「ここは、私の経営するレストランだから、遠慮なく好きな物を頼んでね。」と言うのを忘れなかった。古文書には、おおよそ次のようなことが書かれていた。昔、白山には子どもを生贄にする風習があった。旅の修験者が、山神を調伏して子どもを助けた。しかし、山神がいないと土地は荒れてしまう。修験者は霊力で自らを木に変え、山神を務めることになった。「なるほど、深谷さんは、お守りの噂を流して、神木を削らせることで山神への恨みを晴らそうとしたわけだ。」と鈴木さんがオカルトに精通した目線から、そう分析をすると、秋山さんが補足をした。「さっき、警察のデータベースを調べたところ、青年を脅迫した3人は全員怪死していました。連中は、神木を削って儲けようと企んでいたみたいですね。その最後の1人が、鈴木工務店の事故の被害者です。」みんながしんとすると、ぶつぶつと言っている煤藤さんが目立った。
「タスクには、タスクを重ねて、タスクを解く。その心は?」と、どうも要領を得ないことを繰り返している煤藤さん。「彼は、どうしたのかしら?」私が心配すると、秋山さんが教えてくれた。「実は、深谷さんに会う前に、彼だけまた怪異に遭遇したらしくて。こんな感じなので、詳しくは分からないのですが、どうも暗闇に引きずり込まれる現象に遭ったらしいんですよ。」「でも、彼の姿を見て、依美ちゃんは後悔をしたんですよ。」里山君が、煤藤さんを庇うように言った。里山君が続ける。「彼を見て、依美ちゃんは申し訳ないって。私は、好きだった男子の仇がとりたかっただけなのにって。噂がだいぶ広まった頃、もう彼女だけの力では、どうにもならなくなっていたそうなんです。」里山君のそんな真剣な訴えを、先に届いていたステーキを頬張りながら鈴木さんが聞いている。前回の災いの時も、儀式直前に雑誌を読んでいたし、こういう呑気なところがあるのよね、この人には。でも、こういう呑気な人といるからこそ、恐ろしい怪異を前に希望が持てるのだと感じた。鈴木さんが次のステーキの塊を口にした時、鈴木さんのスマートフォンが鳴った。慌てて出る鈴木さん。その様子がおかしくて、みんなで笑った。煤藤さんでさえも、口の端を少し持ち上げた。「あ、もひもひ。あ、ふぁい。すすきです。はい、すみまさん。あ、もりたひぇんひぇー。あ、ひょっとまってくらはい。」鈴木さんはスマホを一度置いてスピーカーフォンにしてから、水を一気飲みする。スピーカーから、「おい、鈴木。聞いているのか、おい。」という声がする。鈴木さんはごくりと物を飲み込むと、改めて応答した。「あ、はい。すみませんでした。今、ちょうどステーキを食べてまして。今、飲み込みました。」「ああ、そうなのか。で、どうした?またまたお前、トラブルに巻き込まれているのか?」「えー、なんでわかるんですか?さすが、森田先生だ。」「当たり前だ。何年、お前のことを見てきたと思ってるんだ。で、どうした?」このあたりの面倒見の良さが、この先生の人気の理由だろう。前回の災いでも、大いに助けてくれた。鈴木さんは、現在置かれている状況をくどくど説明することはしなかった。今、若者の間で流行っているお守りについてだけ聞いた。
「あ〜、あれか。さすが正人。そういうことには詳しいな。いや、正直、あれにはオレもほとほと困ってんのよ。」「どんなことですか?」「ああ、お前も知ってると思うが、あれさ、中に白山のご神木が入っとるんよ。それで、自作した方が効果があるって噂が広まって、自分で山に削りに行く奴が出る始末でな。あの噂、なんとかならんかな〜。」「そうですね。なんとかしたいですね。森田先生、ありがとうございました。助かりました。」「なんだお前、こんなことでいいのか?しかしまあ、今日お前に会えなかったのは残念だ。タイミングがな〜。近い内に、久しぶりに会いたいもんだ。」「そうですね!絶対に、絶対に、近い内に会いましょう!」鈴木さんは、周りで聞いている私達が心配になるぐらい、絶対を強調して繰り返した。通話は、森田先生の「おう、元気でな。」を最後に切れた。秋山さんが、すかさず本庁のデジタル部門に連絡を入れる。私は私で、秘書に連絡を取る。各通信会社に、協力を依頼するためだ。それから、正気を失いかけている煤藤さんに話しかけた。「煤藤さん、あなたの会社、たしか優秀な通信部門があったわよね。連絡を取って、協力をお願いできるかしら。」「はい。我が社には、とても優秀な通信部門があります。よくご存知ですね。」「あら、だって、株主ですもの。」会社の話になって急に正気に戻った煤藤さんに、私はにこやかに答えた。鈴木さんは自分のオカルト専門チャンネルを開いて、生配信の準備を始める。里山君がやれやれのような身振りをして、「学生のぼくに、できることはないですね。」と言うので、みんなで励ました。「私達は、通信の準備をしたわ。でも、どんな新しい噂を流したらいいかは、若いあなたが考えるのよ。」
里山君が思案するように首を捻ったのとレストランの明かりが一斉に消えたのは、ほぼ同時だった。「みぃつけた。」レストランのちょうど真ん中に、稚児装束に包まれた5、6歳の男の子が現れ、その周囲が青白く光った。青白い光に照らされて、たくさんの蟲達が蠢いているのが見えた。おそらく千匹以上はいるに違いない。煤藤さん以外の4人が、すっと右手の甲を確認する。呪印は、ほぼ全体がしっかりと赤くなっていた。これは、この災いが、今回の峠となることを物語っている。これを乗り切れれば、生き残れる。逆に、これを乗り切れなければ命を落とすのだ。ふふ、経験者ばかりだと、こんなにも心強いものなのね。煤藤さんのことが気になったので目をやると、彼はラップトップで自社と連絡を取るのに夢中で、明かりが消えたことにも気づいていないようだった。「うわあっ!」冷静なはずの秋山さんが、短い悲鳴を上げる。そして、すぐに謝った。「すみません。今、冷たい手に目隠しをされた感触がありまして。でも、もう大丈夫です。さあ、里山君、思いついたかな?」私には秋山さんが焦りを押し殺して、問いかけているのが分かった。里山君は頭を抱えてうなりながら、「そうですね〜。若者達は、何かしら願いを叶えたいわけですよね。その気持ちを、神木を削らない方向に持っていきたい。つまり、神木を削らずに拝むと、さらに願いが叶いやすくなるよとすれば良いのでは。」「#白山の神木を崇めよ!だ。」煤藤さんが叫んで、ラップトップのエンターキーをパシッと叩く。私は、心の中で煤藤さんに謝った。彼は、一連の恐怖からただ逃げていたわけではなかった。迫り来る怪異を、なんとか自分の理解できるものに置き換えようと、ずっと葛藤していたということが、今の言葉と行動から分かった。「#白山の神木を崇めよ!」「#白山の神木を崇めよ!」「#白山の神木を崇めよ!」秋山さん、鈴木さん、私もすぐに動き出した。「ぼくも、大学の友人達に拡散します。」この間、徐々に私達に近づいて来ていた男の子と蟲の群れが、ぴたりと止まった。男の子がつぶやく。「あれ、なんか流れが変わったみたいだ。」さらに、私達を真っ直ぐ見据えて聞いてきた。「もしかして、あなた達が何かしてくれたの?」私達は、示し合わせたようにこくりと頷いた。すると、男の子はとても可愛らしい笑顔を作った。「ありがとう。神木の前でナイフを構えていた人々が、急にそれを捨てて、神木を拝み出したよ。これで、ぼくの恩人も救われるよ。」蟲達が消えた。レストランの明かりがパッと点いた。
男の子もスゥーっと消えそうになるので、私は慌てて尋ねた。「どうしてこんなことをしたの?あなたは、悪い方には見えないわ。」「ぼくを昔、助けてくれた恩人が山の神なんだ。彼は、ずっと土地を守ってきたのに、彼を傷つける人が現れ始めて、ぼくどうしたらいいかわからなくて。でも、もう大丈夫だよ。みんなが、彼の大切さをわかってくれたみたいだから。」男の子が誇らし気に笑うのを見て、彼にとっていかにご神木が大事な存在なのかが伝わってきた。けれども、彼はまた表情を変える。キッと眉を吊り上げて、宙を睨んだ。私はゾクっとして、思わず居住まいを正した。「あと1つだけ、ぼくにはやらなければならないことが残ってるんだ。これだけは、ぼくはやり遂げるよ。」男の子はそこで、今度こそスッと消えた。私がみんなの顔を確かめると、誰しもが沈痛な面持ちをしていた。長い沈黙の後、里山君がこれを言うのは自分の役目ですねという風に、重い口を開けた。「彼女はね。覚悟をしているように見えましたよ。」その言葉に返事をする人はいなかったが、里山君も返事を待ってはいなかった。翌日、秋山さんから連絡が入り、深谷依美が蟲に喰われた状態で見つかったと教えてくれた。私は鈴木工務店に、白山のご神木に社を立てることを依頼した。鈴木工務店の仕事は、やっぱり速くて丁寧だった。簡単な落成式の際、私は鈴木さんと他愛もない話をし合って生き延びたことを喜び合った。「鈴木さん、あなた、森田先生に電話した時、絶対を繰り返すからハラハラしちゃったわ。」「えへっ、あれ少しノリで言ったところもあります。でも、早くちゃんと会いに行かないとな。次の災いが襲ってきちゃう。」「そうね。そうした方がいいわね。ただ、今回も全員生き残れたでしょう。みんなで連携すれば、災いも怖くないかなって思うのよ。」鈴木さんが急に真剣な表情になり、人差し指を自分の顔の前に当てた。「ダメですよ、きんさん。忘れたんですか。怪異は、噂を力に変えるんです。そんな話、呪う側に聞かれたら、次の災いがとんでもないことになっちゃいますよ。」私は大げさに口元に手の平を当てて、しまったといったポーズを作った。甲には、黒い勾玉が3つ。(完)