「そうね。その銘柄は、買っておいてちょうだい。ちがうわ。そちらは売っておいてちょうだい。はい、ではそういうことで。」ふぅ。私は通話を切ると、深くため息をついた。孫の源太が呪いという不可解なものに襲われて亡くなってから、早一か月。病気で入院をしていた私は、源太の復讐を遂げたくて、気力だけで日常生活に復帰した。しかし、68才の病身には日々の生活は過酷で、時折疲れがどっとくる。私はしばらく呼吸を整えてから、椅子に座り、まじまじと右の手の甲を眺めた。そして、いつもやっているように、その甲にある印をさするように撫でた。その印は、勾玉模様をしている。黒色だ。これは、孫の最後を見届けた高校の担任の中川先生によると、呪印という名前らしい。元は、孫の右手にできたものらしい。孫の亡くなった時に、私の手に移った。源太はこの呪印が引き寄せた災いによって、死んでしまった。だから、私にとってこの呪印は、源太の存在を思い出させてくれる大事な刻印であるとともに、大切な源太の命を奪った復讐の対象であるとも言える。私は源太の優しい顔を思い浮かべながら手をさすり、そして自分の為すべき使命を自覚するのである。私は実業家である自分の立場を最大限に活用して、呪印の情報を徹底的に集めさせている。だから、実業家としての活動を止めて、楽隠居というわけにはいかないのである。ふぅ。私は2度目のため息をついて、相場を見るためにタブレットのロックを解除した。
相場のグラフを眺めていると、突然ポップアップが表示された。私が使っているアプリに、こんな邪魔な機能はないはずなのに。ポップアップは通知でも、速報でもなかった。動画だった。再生ボタンを押さずに、勝手に始まっている。どこかの踏切の遠景のようだ。鉄道マニア向けの広告かしら。そう思った私は、動画の×ボタンを探した。しかし、見つからなかった。不親切な広告ね。後で、広告主と媒体を調べておきましょう。私は、仕方なくタブレットのスイッチを押した。これでスリープ状態になるはずだ。相場の続きは、デスクトップのパソコンで見れば良い。だが、タブレットの画面は消えなかった。今度は、スイッチを長押ししてみる。これで電源をオフにしてしまえば良いのだ。だが、それでもダブレットの画面は消えなかった。私は諦めて、タブレットをそのままにして机の上に伏せて置いた。後で修理部門に見てもらえば良い。今は、相場の動向をチェックしたかった。昨日、各国でテロ事件が起きたので、今日は相場が不安定なのだ。私はデスクトップのパソコンを点ける。スリープ状態から起動した画面を見て、私はどきりとした。タブレットで流れていた動画と同じ動画が、勝手に再生されていた。慌ててタブレットを表に返してみると、タブレットとデスクトップは完全に連動していた。もしかしたら、テロの第2弾がどこかで起きて、これはその速報なのかしらと思った私は、相場を見ることを断念して、動画を見ることにした。画面は、だんだんと踏切に近づいていく。おや。私は不思議に思った。踏切内に、電車が停車しているのだ。そして、そこに人だかりができていた。画面が人だかりをかき分けるように、踏切の内側の電車の車輪をクローズアップした。私は思わず、口元を手で押さえた。そこには、女性が倒れていた。女性はうつ伏せに倒れており、明らかに女性の下肢の部分は、電車の車輪の下にあるとわかるような位置関係にあった。ただ、女性は死んでいなかった。苦しそうな表情で周囲を見上げ、もがくように手を必死で動かしている。周囲の人は助けたがっているように見えるが、何をどうしたら良いのかがわからず、近づけないようだ。やがて、女性は画面を見据える。そして、顔だけを精一杯上げて、画面を睨んだ。私は画面越しの彼女と、目がぴたりと合っているかのような奇妙な感覚に襲われ、身震いした。
動画はそこで切れた。私は、すぐに秘書に連絡を取った。秘書が各方面に確認を取ったところ、そのようなニュースはなかった。また、秘書は会社の総務部や広報部にSNSで何かつぶやかれていないか調べるように指示を出してくれた。すると、ごく少数だが、「こんな動画がいきなり出てきたんだけど、あの女性、大丈夫なのかな?」という発信が見つかったらしい。私は発信者アカウントを調査するように依頼して、ついでにタブレットを新しい物に交換してもらった。その日は、その後、何事もなく終わった。翌日、依頼していた件の報告が上がってくるまで、私はこのことを忘れていた。相場の乱高下が前日よりも激しく、注視していたからだ。報告は、3名のアカウントが分かったとのことだった。私は秘書にお礼を言い、ファイルを預かった。夜になり、仕事も一段落ついた頃、私はオフィス内の自分専用の個室で1人の時間を楽しんでいた。社員達は、みんな帰っている。私は社是として、社員の残業を少なくするように努めている。ならば私も率先して早く帰るべきなのだが、代々伝わるあの広い家に帰ると自分の孤独が浮き彫りになる。源太が幼い頃に、源太の両親は通り魔に殺されてしまっていた。それからは源太と2人暮らしだったが、その源太も今はいない。広い家に1人でいると、必然寂しさが募ってくる。私は壁に設置してあるテレビを点けた。他愛もないバラエティ番組がやっている。特に見る気もないが、こういう賑わいがあると、気が少し紛れるのだ。私は画面から目を離して、昼間届いたファイルに目を通した。1人目は、秋山智也。政府関係の情報セキュリティを扱うIT技術者。こういう立場のある人が、デマを広げるとは思えないわね。2人目は、鈴木正人。鈴木工務店の職人。主に木工が得意。鈴木工務店?聞いたことがあるわね。たしか、うちの投資先に名前があったはず。結構、優良な投資先だったわよね。3人目のページをめくったところで、私はハッとした。知り合いだったからだ。いいえ、知り合いなんてものじゃないわ。それは、源太の高校の担任の中川先生だった。
中川先生の詳細に目を通そうとした時、私は部屋が静かになっていることに気づいた。不思議に思って、テレビを見ると、中川先生のアカウントを見つけた以上の驚きがそこにはあった。画面には、今自分がいる部屋が映っていた。どういうこと?ここには、カメラは設置していないはず。まさか盗撮?私が会社のセキュリティに疑念を抱いた時、個室のドアがゆっくりと開いた。私はまた驚いて、ドアの方を見る。しかし、誰もいなかった。しっかり閉めたはずなのに、風で開いたのかしら。わたしは軽く混乱しながら、画面をまた見た。混乱がさらに深まる。画面の中には、開いたドアのところに何者かが映っていた。何者かはうつ伏せに倒れている。私は開いたドアに、もう一度目をやる、誰もいない。画面に目をやる。何者かがいる。ドア。いない。画面。いる。顔も伏せているので確かめようがなかったが、髪の長さからどうやら女性のようだ。そして、よく見ると、下肢にあたる部分がなかった。私は混乱が度を越えて、逆に冷静に状況を見ていた。ズズ、ズズ。画面の中では、女性が手を使って、少しずつ動き始めた。こちらに向かって来ているようだが、実際のその場所にはやはり何もない。私は録画であることも考えて、持っていたペンをドア付近に投げてみる。画面の中では、ドア付近にペンが投げ込まれたのが映った。「誰?あなたは誰なの?」私は丁寧な口調で、何もない空間に問いかけた。画面にも、同じように問いかけてみる。反応はない。突然、画面が切り替わり、大音量でバラエティ番組内の芸人達が笑い合う声が部屋中に溢れた。ズキッ!私は右手の甲に痛みを感じたので、右手の甲を確認する。勾玉模様の呪印が、1つ増えていた。1つ目が黒くなっているのとは異なり、2つ目は青白く光っていた。私は、にやりとしてつぶやいた。「そういうことね。待っていたわよ。」
私はすぐに、中川先生に電話をする。報告書を見るまでもなく、スマートフォンのデータに連絡先は入っていた。「あ、きんさん。私も今、お電話を差し上げようかと思っていたところです。」「ということは、やっぱり。」「はい。私も今、怪奇現象に遭遇しました。下半身がない女性の霊的なものが画面に映りました。きんさんも同じですか?」「そうよ。同じよ。でもね、先生。おかしいんだけど、私、嬉しくなっちゃったのよ。これで源太の仇がとれるってね。ふふ。」「うふふ。さすがですね、きんさん。」「夜遅いけど、今からこっちに来てもらえるかしら?車を送るわ。」「はい、わかりました。ありがとうございます。」30分後、中川先生がオフィスにやってきた。私はすぐに、報告書を見せた。もちろん、中川先生の分は除いて。誰でも、自分が調べられていたと知ったら、あまり良い気持ちがしないものでしょう。除いても、おそらく中川先生は、自分のアカウントも調べられたことに気づいたと思うが、そのことには触れてこなかった。やはり賢い方だわ。源太は本当に幸せだったわね。この方に、担任をしてもらって。中川先生は目を丸くして、「すごいですね、財力って。」と言った。私は、「あら、お金があれば何でもできるというわけでもないのよ。要は、お金で何を形作るかね。」と答えた。すると、中川先生がまじまじと私の顔を見つめた。何か失礼なことを言ったかと思い、私は慌てて「ごめんなさい。どこか偉そうな言い方をしてしまったかしら。気に障ったなら、謝るわ。」と付け足した。中川先生は、首を横に振ってから言った。「違うんです。たぶん、偶然だとは思うんですが、この2人、どちらも私が知っている人だと思います。」「あら、それはすごい偶然ね。差し支えなければ、教えてもらっても良いかしら。」「はい。もちろんです。この秋山君は、おそらく私の大学の同級生です。彼はシステムエンジニアで、前に会った時に、政府の仕事を請け負っていると言っていました。それから、こちらの鈴木正人さんの方ですが、会ったことはありません。でも、おそらく前回の災いの時に源太君と一緒に化けモノに引きずり込まれた田中さんの幼馴染の方だと思います。」「ああ、そちらの方なら覚えておりますわ。たしか、かなりオカルトに詳しい方でしたよね。」「そうです。早速、連絡してみますか?」「明日にしましょう。今日は、もう遅いもの。でも、今夜はうちに泊まっていってね。心細いから。ふふ。」「はい。そう思って、宿泊セットを持ってきました。ふふ。」やっぱり賢い方ね。小室山家は代々続く旧家のため、部屋がたくさんある。だが、現在は、大広間は封印してある。そこは前回、中川先生と源太、他2人が災いに巻き込まれた場所だったからである。中川先生が源太と布団を並べて寝た和室も、源太が悪夢にうなされていたことを先生が思い出してしまうからという理由から避けることにした。私達は洋室のベッドの上で、不安を紛らわすために他愛もない話をしてから眠りについた。
翌朝、中川先生は2人に連絡を取った。トントン拍子に話は進み、私達は鈴木工務店に集まることになった。私にとって2人は初対面だったが、2人は私のことを知っていた。秋山さんは実業家としての私を知っていて、鈴木さんは投資主としての私を知っていた。そのため、各々の自己紹介もスムーズだった。あと、出会ってから初めて2人は思い出したのだけれども、鈴木さんと中川先生も知り合いだった。鈴木さんは、田中さんと小学校、中学校だけでなく高校も同じ学校で、中川先生はその学校で教育実習をしていた。中川先生は、ちょっと困ったように笑った。「ここにいる皆さん全員が、私と繋がりがあるのね。心強いけど、なんだか私が呪いに巻き込んでいるみたいで、責任を感じてしまうわ。」みんなで、中川先生に気にしないようにと言って慰めた。なんと、すごいことに、2人はそれぞれ別ルートから情報を手に入れていた。秋山さんは、上司の優れたエンジニアに頼んで、事故動画の日付と場所を突き止めていた。鈴木さんは、オカルトマニアの間に広がっている呪いの動画の噂について掴んでいた。鈴木工務店に設置された営業度外視のオカルトコーナーを見ると、簡単に噂を手に入れたのも頷ける。ちょっと投資について見直した方がいいかしら。私は冗談まじりに、そんなことを思った。まず事故動画の方だが、これは実際に起きたことらしい。10年前、◯◯県◯◯市の踏切で起きた人身事故の動画であった。被害者は若い女性で、電車に下半身を轢断されて死亡してしまったとのこと。動画は近隣の方が撮影したそうだが、あまりにも悲惨な状況なので、ニュースなどでは使われなかったそうだ。説明の続きを、鈴木さんが引き取った。数年前から、都市伝説として、「閲覧注意」というタイトルの動画がネットに流れていたらしい。そして、この動画を見た者のところに、被害者女性の霊が現れるという噂も付いて回っていた。
鈴木さんの説明が終わろうとする頃、秋山さんは自らのズボンのポケットの部分を指でカタカタと叩いていた。それは何かの禁断症状のようで、自分で説明している時は我慢できていたけれども、今は我慢しきれないといった感じに見えた。中川先生が、それに気づいて優しく言葉をかける。「どうしたの?秋山君。タバコを吸いたいの?」「あー、タバコでしたら、職人さん達の喫煙所がありますよ。ご案内しましょう。」鈴木さんが明るく誘うと、秋山さんは照れたように頬を赤く染めた。「いや、お恥ずかしい。実は、私はワーカーホリックでして。四六時中、パソコンを触っていないと落ちつかないんですよ。ほら、今は集まる前に取り決めたから、画像の映る物は持ってきていないでしょう。いや、皆さんのせいではないんです。念のため、画像の映る物は避けた方が良いというのは、私も考えていたことですから。ごめんなさい。どうか、気にしないでください。」秋山さんがそう言って頭を下げると、いきなり鈴木工務店のガラス張りの窓がガタガタと鳴った。4人が驚いて窓の方に目をやると、まだ昼間だというのに、外は異様に暗かった。「おかしいな。このガラスははめ殺しで開閉できないから、揺れるはずがないのに。」鈴木さんが首をかしげると、中川先生が「見て!」と叫んだ。目を凝らすと、窓は明るさの関係で室内の様子を反射している。私達が今座っているソファの奥の扉が開いていて、その扉にあの這う女性の姿が映っていた。私達は、同じことを感じていたようだ。誰しもがすぐに扉の方を振り向かず、一度顔を見合わせてゴクリと唾を飲み込んだ。それから、ゆっくりとドアの方を見ると案の定、這う女性の姿はなかった。再び、窓に目を戻す。いつの間にか、這う女性は私達のソファから3mの所にまで来ていた。窓の外が明るくなった。厚い雲の切れ間から、光が筋となって差し込んでいるのが見えた。かなりうっすらとしか室内を反射しなくなった窓には、すでに這う女性の姿はなかった。
「これは、昨日よりも近づいていましたね。」と鈴木さんが言う。「間違いなく、明日にはすぐ側まで来るでしょう。」と秋山さんが言う。「近くまで来たら、どうなるんでしょうか。」と中川先生が言う。「まあ、無事で済むということは、ないのでしょうねぇ。」と私が言った。「何とかしなければ、なりませんね。鈴木さん、こんな時はどうすれば良いのですか?」私の質問に、鈴木さんが戸惑う。「え?え、いや、ぼくですか?」私と秋山さんと中川先生は、店内のオカルトコーナーを一瞥してから、さも当然という顔で鈴木さんを見返した。鈴木さんは頭を掻きながら、「いや、ぼくなんか、そんな。」としどろもどろになっている。中川先生が自分のバッグから白い物を取り出して、鈴木さんの前に突きつけた。「これは、田中君が持っていた物です。田中君は、これを子どもの頃にあなたにもらったと言っていました。田中君は、これを持って化けモノと勇敢に戦いました。田中君は、あなたに強い憧れを抱いたまま、化けモノに取り込まれていきました。」中川先生の目から、涙が零れ落ちる。鈴木さんは真剣な表情を作り、中川先生の手から白い物を受け取り、目の前に広げてみせた。それは、びっしりとおかしな文字が書かれた白いTシャツだった。「たしかに、これはぼくが田中にあげた物だ。あいつ、まだ持ってくれていたんだ。嬉しいな。そして先生、持ってきてくれてありがとう。でも、今回みたいな映像の怪異は、どう対処したらいいか、ぼくにもわからないんです。」その時、鈴木工務店の備えつけの電話が鳴った。鈴木さんが失礼しますと断わりを入れてから、受話器を取った。「はい、こちら鈴木工務店です。あ、はい、正人はぼくですが。あ、森田先生ですか。どうも、お久しぶりです。はい、元気にしています。あ、はい。そうなんです。今、ちょっと面倒に巻き込まれてしまっていて。それで、何か知らないかなと思って、同級生ネットワークにも片っ端から聞いてみたんですよ。あ、はい。ごめんなさい。そんなに怒らないでください。はい、先生が心配してくださってるのは、わかってます。え?何ですって?はい、はい、それは耳寄りな情報です。待ってください。今、メモします。メモしました。ありがとうございます。早速、訪ねてみます。先生、本当にありがとうございます。」
鈴木さんの話では、電話の相手は高校の恩師の森田先生とのこと。中川先生の実習の時期とは重なっていないので、中川先生は知らないとのこと。森田先生は体育教師だが、一時期オカルトに溺れて不登校になった鈴木さんを心配して、努力の末にまともな生活に戻してくれたとのことだった。今の電話は、今回の件を高校の同級生のほとんどに相談した鈴木さんの話を誰かから聞いたので、またまたまずい状況に陥っているのではないかと心配してかけてきたそうだ。その話を森田先生にした誰かは、内容まで無駄に詳しく話したようだったが、先生はその噂に心当たりがあった。鈴木さんとは違う高校の教え子が、今回の映像の怪異と似た状況に巻き込まれたけれども、拝み屋という専門家に相談をして事無きを得たということだった。私達はメモを頼りに、急いでその拝み屋さんの場所に向かった。メモの住所の玄関口で迎えて出たのは、若い女性だった。「こちらは拝み屋さんですか?」私が尋ねると、女性は「拝み屋は祖父です。でも、祖父は先日、亡くなってしまいました。」と答えた。私達が落胆する様子を見て、女性は気遣わしげに「どうされたのですか?」と心配してくれた。私達が事情を話すと、女性は少しお待ちくださいと言って、家の奥に消えていった。しばらくして戻ってくると、女性は小脇に一冊の書物を抱えていた。「残念ながら、祖父の技を受け継いだ者はおりません。ただ、祖父が生前に苦労して祓った事件の情報はここに書いてあります。皆様がおっしゃっられているのは、おそらくこの事件のことかと。」女性は書物の1ページを開きながら、淡々と話した。
女性は静かに続ける。「この事件のことは、私もよく覚えています。あまり仕事の話をしない祖父が、珍しく骨が折れたと語っておりましたから。ここに書いてある形代というのは、皆様の身代わりになる人形のことです。祖父が作り遺していったものがありますので、どうぞお使いください。」女性が玄関横の戸棚を開くと、中には藁人形が、隙間なく詰まっていた。書物には、形代の他に、自分の髪の毛、名前を書いた紙、注連縄、大きな鏡、「案」という台が2つ必要だと書いてあった。私が会社に連絡をして取り寄せたり、女性が家の中から見つけ出してくれたりして、私達は準備を進めた。どうにか翌日までには、全ての道具を揃えることができた。私達4人は、4つの柱を注連縄で結んだ。そうして作った結界の中に入り、その中で息を潜める。さらに向かいに台を置き、4人の髪の毛を埋め込んだ形代を添えた。タブレットを立てて置き、反対側に大きな鏡を置く。あとは、這う女性が出て来るのを待つだけだった。拝み屋の孫の女性が立ち会うことを申し出てくれたが、危険なので丁重にお断りした。待つ間、ワーカーホリックの秋山さんは、片方の手がキーボードを叩く真似事をし始めると、もう片方の手で抑えるという動きを繰り返していた。鈴木さんはこの期に及んで、呑気にオカルトの本を読んでいる。それを眺めながら私は、この人が都市伝説を広めていたとしても不思議はないわねと思ったりした。
ピン!空気が張り詰めた気がした。中川先生も、秋山さんも、鈴木さんも、何かを感じて、顔を上げた。4回目ともなると、みんな何かしら霊感的なものが身についてきたのかもしれなかった。鏡越しに見ると、タブレットに動画が再生されているのが分かる。動画には、もちろんこの部屋が映っている。だが、本来私達のいるべき場所に私達の姿は映ってなく、形代の置いてある場所に私達の姿が映っていた。これはおそらく形代が効果を発揮して、怪異が誤認をしている証ではないだろうか。私達はそのことについて話し合いたかったが、じっと耐えて黙っていた。やがて、這う女性が現れた。ズズ、ズズ、ズズ。音はしないが、映像の中では形代に着実に近づいている。しかし、這う女性は形代の側を通り抜けて行った。失敗して気づかれたのかと思い、私が声を出そうとすると、鈴木さんが人差し指を立てて自分の口に当てて見せた。形代を通り過ぎた這う女性は、映像の中のタブレットの位置まで来た。そして、ぬっと手を伸ばす。すると、タブレットの画面からぬっと手が出てきた。手、腕、肩に続き、頭、長い髪の毛、白い服、背中が現れた。その後に続く体はない。今までの映像では迫ってくる場面ばかりだったのでよく分からなかったが、今は這う女性を後ろから見る格好になっている。そのため轢断された部分をはっきりと見ることになったが、そこは思わず目を逸らしたくなるほど悲惨なことになっていた。私は膝の上で拳を握りしめて、堪えながら這う女性を見続けた。一つには、這う女性に同情する気持ちを抑え込むため。もう一つには、ようやく実体を現した怪異に対する復讐心を抑え込むためであった。二つの相反する感情が、対立し合うことなく自分の中に存在することに私は疑問を持たなかった。
ズズ、ズズ、ズズ。さっきまでしていなかった音が、静かな部屋の中に響く。耳を澄ますと、他にも聞こえてくるものがある。「ダイ」「・・ダイ」「・・ウダイ」「チョウダイ」その言葉は、這う女性が言っているようだ。這う女性がうつ伏せの状態から、両手を高々と上げた。次の瞬間、「アナタノアシヲチョウダーーーイ!!」という絶叫とともに、手を床に叩きつけて、這う女性の体が跳躍した。這う女性の腕が2倍、3倍に黒く膨れ上がり、設置された台ごと形代を掴み取った。形代が這う女性に取り込まれていく。それは、中川先生から聞いていた源太の最期を彷彿とさせた。私は無言で立ち上がった。他の3人が何事かと見つめるのに構わず、私は注連縄の外に出た。形代を取り込むのに夢中になっていた這う女性の動きが、ぴたりと止んだ。私は懐に手を入れて、拳銃を取り出した。そして、腰を据えて構える。這う女性が、こちらを振り向いた。私はその眉間を狙って、銃口を向けた。躊躇いはなかった。這う女性が笑うように口元を歪めるのと、私が引き金を引くのとは、ほぼ同時だった。弾は狙い通りに、這う女性の眉間に命中した。潰れた腰だけで立っているはずの這う女性は、すぐには倒れなかった。前に後ろに揺れて、宙を泳ぐように手でかいている。「ちょ、ちょうだー、、」眉間に開けた穴から黒いモノが、一斉に噴き出してきた。黒いモノは、私を目がけて襲いかかってくる。私は避ける間もなく飲みこまれた。ああ、これで源太の元にいけるのかしら。私はある種、満たされながら全身を為されるがままにしていた。がしっ!そんな私の左腕を掴む者がいた。「ダメです!きんさん!ダメです!」中川先生の声が聞こえるが、目の前は暗闇に覆われている。私は、そこで意識を失った。
気がつくと、私は注連縄の中で倒れていた。横には、中川先生が倒れている。私は、中川先生と手を取り合っていた。私の手がぴくりと動いたことに反応して、中川先生が目を開けずに言った。「良かった。きんさん。本当に良かった。もう私の目の前で、誰かがいなくなるのは嫌です。」私は握っている中川先生の手を、さらに強く握りしめて答えた。「ごめんなさい。あなたの気持ちを考えてなかったわ。私は、もうこれでいいなんて考えてしまったけど、助けてくれて本当に感謝しているわ。ありがとう。」中川先生はゆっくりと目を開け、私を見て微笑んだ。私も微笑み返した。2人とも体も顔も黒い物体で汚れたまま、長い間、微笑み合っていた。私達4人は、こまめに連絡を取り合うことを約束して別れた。今回は幸運にも誰も被害に遭わずに、災いを退けることができた。しかし、次もまたうまくいくとは限らない。今回の件で分かったことは、情報の大切さだった。過多となり、混濁しがちな情報の中から、有益な情報を見つけ出す。そのためには、呪印者同士で協力し合わなければならない。また、これも今回の怪異と対峙して分かったことだが、怪異の元は怪異でないのかもしれない。そこに色々な人の想いや噂が重なって、怪異となるのかもしれなかった。怪異への接し方を学ぶ必要もあるだろう。別れ際、私は鈴木さんに、「今度、我が社でオカルトに関するセミナーを開いてくださらないかしら?」と頼んだ。「はい、もちろん。」鈴木さんは、笑顔で快諾してくれた。(完)