拙者は、青江冲ノ進。浪人者でござる。元は、旗本の三男坊。旗本と言っても、たかだか高百石。その三男坊ともなれば、冷や飯ぐらい。一時は婿の道もあろうかと剣の修行に明け暮れもしたが、父が早世し兄が家を継いでからというもの、厄介叔父扱い。もちろん、兄嫁はそんな邪険な態度は取らないが、まあ居づらいのなんのって。家を出て、今は気ままな長屋暮らし。傘貼りから用心棒、なんでもござれの毎日でござる。いずれ仕官の道もあろうかと、志だけは立派な21歳。今は、歳相応に町娘に淡い恋心を抱いているのは秘密でござる。「む、では、この新作の抹茶味とやらを五ついただこう。」拙者は、菓子屋で大福を買い求めた。日ごろ、世話になっている皆さんと、食べようと思ったからだ。菓子屋を出ると、聞き慣れた声が聞こえた。「おう、親父。やっぱおめぇんとこの蕎麦はうめぇな。和泉様もよ、そう思うでしょ?」「ああ、そうだな。町回りの後は、ここの蕎麦屋に限るな。」そう話しているのは、町火消しの八兵エと町回り同心の和泉殿。「おう、沖の字じゃねぇか。お前も、蕎麦食ってきなよ。」八兵エは気安い男で、それが心地良い。「そうですな。いただきましょう。その後に、皆さんでこちらもどうです?」「何でぇ?大福かい?こいつは、ご馳になる。しょっぺぇものの後に甘いものとは、これ王道だな。おや、あそこを行くのは、鹿丸の旦那だな。おーい、旦那。」通りを歩いていた鹿丸さんが我々に気づいて、振り向いた。「おや、皆さん、お揃いで。おや、お蕎麦。おや、大福。いいですな〜。今日も天下泰平です。」「いやいや、これもね、鹿丸の旦那んとこの鰹節がいい出汁出してるからよ。飯がうまけりゃ、万事幸せとくらぁ。おっ、あそこを行くのは、妙晶様。なんでぇ、なんでぇ、今日はよく顔見知りとばかり、出くわすじゃねぇか。妙晶さまー、ほれ、ここに冲ノ字の大福があるぜ。一つどうだい?」遠くで頭巾を被った尼僧が、ゆっくりと手を合わせるのが見えた。尼僧は、だんだんと近づいてくる。あくまで、ゆっくりとだ。いつ見ても、丁寧な方だと思う。おそらく拙者の三つ四つほど上なだけであろうが、若くして出家をするなんて何か事情がおありなのだろうか。妙晶様の整った顔立ちを見ると、いつもそんな下衆な勘繰りをしてしまう。拙者の悪いところでござる。
「あ、みんなー。ちょうどいいところで会ったね。」拙者はその声を聞いて、背筋を伸ばした。しかし、すぐに振り向く勇気はなかった。「おう、お嬢。また今日は、えらく見違えて見えるな。」「へへー。でしょー。見て見て、おっ父が買ってくれたんだー。」拙者はそこでようやく振り向いて、声の主に挨拶した。「や、やあ、お梅ちゃん。す、素敵な着物だね。とても似合ってると思うよ。」「ありがとう。冲ノ進さん。ほらほら。」お梅は袖口を握って、くるりと一回転して見せた。着物も綺麗だが、お梅はいつにも増して一段と綺麗だった。「いやあ、似合ってるよ。しっかしまあ、あの親方がねー。こりゃ、奮発したもんだあ。あっしらにも、お小遣いくれねぇかな?」と、八兵エが少し拗ねたように言う。お梅の父親は火消し組・臥煙の組頭で、八兵エの親分に当たる。みんな、そのことを知っているので、八兵エのその口調も、身内ならではの冗談だと分かる。「はっはっはっ。いや、いつもは厳しい臥煙の親方も、やはり人の親ということだな。いや、実に綺麗だよ。お梅ちゃん。」と、和泉殿が楽しげに笑う。そんな中、妙晶様と鹿丸さんが、奇妙な感じで目を合わせていた。お梅が心配そうに、2人に聞いた。「私には、ちょっと派手すぎたかな?」妙晶様と鹿丸さんは、慌ててかぶりを振った。「いやいやいや、とてもよく似合ってるよ。その紋様は吉祥紋だね。これはまた、縁起のいい模様だ。」という鹿丸さんの言葉を、「ええ、すごい似合ってますわ。紫地と言うんですよね、これ。ちょうどお梅さんの年頃に、ふさわしいものだと思いますの。」と妙晶様が引き取った。「えへへ。ありがとう。あ、みんな、お蕎麦とか大福食べてたの?私も何か食べたいな。」「お、じゃあ、そこに団子屋の屋台が出てっから、みんなで行こうや。ほら、お嬢、足元気をつけな。」八兵エがさっと立ち上がって、みんなを先導する。パチパチと炭火の爆ぜる音をさせ、香ばしい匂いをさせながら、団子屋は繁盛していた。「おう、みたらしを5本もらおうか。お嬢は、上等なおべべを着ているもんな。みたらしはまずかろう。甘酒にしときな。あとは、白団子だな。ほれ。」また軽やかに立ち振る舞って、しかもさり気ない気遣いを見せる八兵エに、拙者は軽い嫉妬心を覚えた。その時!パチッ!炭が大きく弾ける音がして、火のついたままの大きな炭のかたまりが、屋台の隣の草に飛んだ。途端に、草に火がついた。慌てて、八兵エが草を踏みつける。「おうおう、危ねぇぜ。団子屋。おいらの仕事を増やさないでくれよ。」「へい、すいませんです。火消しの旦那。」そのやりとりを妙晶様と鹿丸さんが、青ざめた表情で見ているのに、拙者は気づいた。
その後、拙者達は連れ立って縁日へ向かった。帰る頃には、すっかり日が暮れかけていた。「あー、楽しかった。でも、すっかり夜だねー。」「ほんとだよ、お嬢。暮六つの鐘なんざ、とっくに鳴っちまったぜ。これじゃあ、家に着く頃には、真っ暗闇だ。親方にどやされるぞ。」「やだ、八兵エさんたら、人のこと脅して。へへん、怒られたっていいもん。夜には、楽しみが待ってるからー。」お梅ちゃんのその言葉に、おれはどきりとした。八兵エがすかさず茶々を入れる。「なんだい?楽しみって。食いもんかい?さっきまで、あんなにばくばく食っていたのに、まだ食うのかい?」「ひっどーい。違うもんね。もう八兵エには、教えないんだから。」カンカンカンカン。カンカンカンカン。突然、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。「おいおい、こりゃ、半鐘じゃねぇか。おいらの出番か、こんちくしょー。お、あそこから火の手が見えらぁ。皆さん、すいませんね。ちょいと行ってきますわぁ。」「おう、おれも行くぜ。」「私も。」「拙者も。」和泉殿、鹿丸さん、拙者が名乗りをあげる。八兵エが行きかけの足を振り上げたまま止まり、顔だけでこちらを振り返る。ほんの少し悩んだかと思うと、「おう、ありがてぇ。じゃあ、和泉殿と鹿丸さん、来ておくんなさいまし。」「八兵エ殿、それはひどいでござる。拙者は、そんなにものの役に立たないように見え申すか?」「おっと、沖の字、怒んじゃないよ。あんたには、お嬢と妙晶様を頼みたいんだ。」言うと八兵エは振り上げていた足をおろして、こちらに向き直った。そして、右手を上にあげて人差し指を立てた。「ほらな。風が出てきてやがる。しかも、悪いことにこっち向きだ。もしかしたら、あっという間に広がっちまうかもしれないだろ?だから、頼むよ。」八兵エは両手で拙者の肩をぽんぽんと叩いて、意味ありげな目配せをした。ああ、もう。いなせなお人だよ、あんたは!拙者は一切承知して、お梅ちゃんと妙晶様を連れて逃げた。
三町ほど逃げたところで、拙者達は立ち止まった。途中で徐々に増えた避難する人々に紛れて、いつの間にか妙晶様の姿がなかった。さっきの八兵エの妙な目配せが脳裏に残っているからだろうか、妙晶様も何か気をきかせてくれたのかと拙者は疑った。「妙晶様と、はぐれちゃったねー。」「まったくでござる。八兵エ殿に頼まれたのに、不甲斐ないことでござる。」「もう沖ノ進さんったら、真面目だな。大丈夫だよ。妙晶様は、沖ノ進さんより年上でしょ。」「確かに、そうでござるが。」そこで、拙者は改めてお梅ちゃんと2人きりでいることに気づいて、少し狼狽した。走ってきたために、上気してやや頬が赤くなっていることで、夜目にもかわいく見えた。思わず、また見惚れてしまったのだろう。お梅ちゃんが、不思議そうに聞いてきた。「どうしたの、冲ノ進さん?」「あ、いや、その着物、やっぱりよく似合っているなと思って。」「えへへ、ありがとう。でも、今日、10回目ぐらいだよ、それ。何度言ってもらっても、嬉しいけどさ。」「そうでござったか。」「そうでござったよ。」お梅ちゃんと拙者は逃げてきた後の安心感に誘われて、一緒に笑い合った。拙者は今しかないと思って、思い切って聞いてみることにした。「お梅ちゃん。」「なあに?」「さっき、八兵エ殿に内緒にしていた話ってなんだい?」「・・・。」「あ、いや、嫌だったら、話さなくてもいいんだ。ただ、ちょっと気になっただけだから。」「あのね。あたし、最近ね、夢を見るの?」「夢?」「うん。夢の中にさ、とても素敵な男の人が出てくるんだよね。夢なんだけど、毎晩のことだからさ、あたし岡惚れしちゃってんの。」「そ、そうなんだ。」「あ、今、夢に出てくる人に懸想するなんてって、馬鹿にしたでしょ?」「し、してないよ。」「ほんとうに?でも、八兵エは馬鹿にするんだろうな。沖ノ進さん、内緒にしといてね。」「う、うん。わかった。」拙者は、自分でも消え入りそうな声になっているのが分かった。
翌朝、長屋で内職もせずに塞ぎ込んでいると、鹿丸さん達が訪ねてきた。聞くと、鹿丸さんと妙晶様がお梅ちゃんの着物に何か引っかかりを感じているらしく、八兵エの案内で臥煙の親方があの着物を求めた呉服屋に聞き込みに行くらしい。聞き込みとあっては、おれの出番だろうと和泉殿もいる。拙者としては、お梅ちゃんのためならと同行したいところではござったが、いかんせん昨晩の衝撃から立ち直っていなかったので断った。すると、皆さんは大層心配してくれて、調査の帰りにまた寄ってくれた。時分は昼時で、長屋の前の通りは何やら賑やかであった。札をばらまく一行が通りすぎてゆき、それを我先に受け取ろうと踊っている人々も通り過ぎてゆく。その様子を眺めていると、自分の悩みがなんだか馬鹿らしくなって、拙者は笑みをこぼした。「おう、良かったぜ、沖ノ字。落ち込んでるおめぇさんは、見てて辛かったからよ。」「かたじけない。実は、昨晩、お梅ちゃんから夢に出てくる男に惚れているっていう話を聞いてしまいまして。あ、しまった。これは八兵エ殿には、内緒にしろと言われていたのでござる。」「大丈夫だって。言やぁしないよ。しかし、お嬢がそんなことにね〜。これは、やっぱりあの着物が。」「あの着物?ああ、そう言えば、何か分かったでござるか?」「そうなんだよ。それについちゃあ、鹿丸さんから聞いてくれ。」「そうなんです、沖ノ進さん。お梅さんが着ていたあの着物、どうやら三年前のあの明暦の大火を引き起こした女性が身に着けていたものらしいんです。」「それは、つまり、同じ柄というこでござるか?」「違うんです。呉服屋さんによると、同じ柄の物は2つとないらしくて。呉服屋さんも気味が悪いから、かなり安く売ったらしいんですよ。」「ったくな〜。親方が、あんな高級品を買えるはずがないと思ってたんだよな〜。無理しちゃだめだってんだよ。」「それと、お梅ちゃんの恋と、どんな関係があるでござるか?」「それがですね。店主によれば、着物の元の持ち主も、夢の中の男の方を慕っていたとかいないとかという噂があったそうです。」鹿丸さんの言葉に、拙者がはっとして顔を上げると、頷く4人と目が合った。
「それで、これからどうするでござるか?」「まず、おれと八兵エとで江戸市中の火消し組を回ろうと思う。あらかじめ備えておけば、消火や延焼を防ぐのは容易くなるだろう。元は怪談話に毛が生えたような話だが、火消しっていう職は存外縁起を担ぐからな。」「その間によ、沖ノ字と鹿丸の旦那は、妙晶様と一緒に夢占い師の所を、当たってみてくれねぇかい。」「占い師でござるか?」「占い師と言ってもですね。その方は、すごい術師の方なのですよ。わたくしも、いつもその方に術の手ほどきを受けているんです。」妙晶様が手を合わせて辞儀をしながら話すと、とても説得力があった。妙晶様の後について、鹿丸さんと私は夢占い師のもとへ向かった。「む、良からぬ気がついておるな。」夢占い師は、会うなり言い放った。「これは、なかなか強い気じゃ。そなた達、3人についておる。特に、そこのお侍さん。そなたに、たくさんついておる。そなた、何か夢にまつわる話を本人から直接聞いたのではないか?」「あ、はい。」「それじゃな。よし!妙晶。こないだの術を試してみるのじゃ。」「わかりました。では、沖ノ進さん、横になってください。」「え?ここででござるか?わ、わかりました。」拙者は、板の間の上に横になった。「目をつむってください。」拙者は、目をつむった。しばらく何かがさごそする音が聞こえたかと思うと、いきなり額にぴたっと冷たいものがくっついた。ひゃっと拙者が声を挙げると、妙晶様が「ごめんなさいね。ただの紙ですから、安心してください。」と言って、拙者の両鬢のあたりをそっと撫でる感触がした。拙者の心臓が、早鐘を打っている。むにゃむにゃ、ぶつぶつと呪文が聞こえてくる。すると、さっきまで、あんなにどきどきしていたはずなのに、拙者はすーっと眠りにおちた。
夢を見た。夢の中で、拙者はお梅ちゃんを見かけた。場所はどこかの辻角だ。お梅ちゃんは、拙者に気づいていなかった。ある男と向き合っていた。男は7尺はあろうかという大男で、こちらに背を向けているので、顔は見えなかった。男は、南蛮様式のひらひらした首飾りをつけている。男がお梅ちゃんに話しかける。「その着物、やっぱり素敵だよ。」お梅ちゃんは男を見上げて、うっとりとしている。拙者が声をかけようとしたところで、夢は覚めた。額の紙が剥がされると、目の前に心配そうに覗き込む妙晶様の顔があった。「大丈夫ですか?沖ノ進さん?」「あ、はい。」拙者は、胸がまた早鐘を打ち始めるのを感じながら答えた。そして、立ち上がって、夢の中での出来事を話した。また、墨と紙を借りて、男の容姿を描いて見せた。多少、芸術には心得があるのだ。「むむぅ、やはり着物に原因があるのは、間違いないようだ。しかも、この男はもしや。」と、夢占い師が考え込む。拙者達は、夢占い師に何か分かったら教えてもらうように頼み、八兵エ殿と和泉殿と合流することにした。皆一様に、暗い顔をしている。心は、おそらく一緒だった。あんなにはしゃいでいるお梅ちゃんから、一体どうやって着物を取ることができるのだろうか。結局、その役目は八兵エ殿が引き受けることになった。八兵エ殿は、1人で話をすると言ってくれたが、同時にみんなも離れたところで見守って欲しいと言った。八兵エ殿がお梅ちゃんを小川岸に連れ出したので、拙者達は草陰に隠れて成り行きを見守った。「なあに?八兵エ、話って?」「おいらはよ、回りくどい話は苦手だから、単刀直入に言うぜ。お嬢、その着物脱いじゃくれねぇか?」「え?何言ってるの?」「あ、いや、変な意味じゃねーんだ。その着物、実はさ、曰く付きの物らしいんだわ。3年前の明暦の大火の時に、それを着た女性が呪われて、大火を引き起こしたって話があるんだ。」「でも、そんなの迷信でしょ。あたし、これ、すごい気に入ってるの。」「ああ、そりゃ十分に分かってるつもりさ。その上で、頼みてぇんだ。お嬢のことも心配だし、江戸の町の人々のことも心配なんだ。頼む!この通りだ!」「は、八兵エ。八兵エが頭を下げるなんて、珍しいね。そうだよね。あたしも、火消しの組頭の娘だもんね。自分のことだけじゃなくて、町の人のことも考えなきゃだめだよね。分かった。着物は、八兵エに預けるね。」
お梅ちゃんが納得してくれそうな様子を見て、草陰組の間にほっとした空気が流れ始めた。しかし、拙者の胸中は複雑だった。お梅ちゃんが災難から逃れるのは嬉しいが、八兵エ殿とお梅ちゃんがとてもいい感じに見えたのだ。こんな時に嫉妬を覚えるなんて、馬鹿馬鹿しく女々しいことだと恥ながらも、自分の気持ちを抑えることができない。そんな拙者を気遣って、鹿丸さんが小声で声をかけてくれた。「沖ノ進さん、苦しそうですが、大丈夫ですか?」「あ、はい。なんだかあの2人いい雰囲気だなと思うと、なんかこう心の臓あたりがキリキリと痛みます。」「ああ、そうですな。それは仕方のないことです。」「鹿丸さんも、このようなご経験がおありで?」「ええ、まあ、それはまあ、それなりに。」「いっそ、身を引いてしまえば、楽になるのでしょうね。」「まあまあ、沖ノ進さん、そう悲観なさるものではありません。恋というのは、思いがけない展開を見せるものです。」「はあ、なるほど。しかし、武士たる者、おなごのことで悩むとは、情けのうござる。」「なあに、武士といえども、人は人。人の悩みは、それぞれですよ。」「かたじけない。」と答えたものの、拙者はそこから寝込んでしまった。拙者が寝込んでいる間に、色々なことがあったらしい。まず、夜に大がかりな火事が起きた。幸いなことに、拙者達の長屋に火の手は回って来なかったが、かなり延焼が広がったらしい。それから、和泉殿が奉行所の記録から呪いに関する事柄を見つけてきたらしい。夢に関する呪いを解くには、幻夢鏡という物と絵草紙『なくおとそうし』が必要だということだ。そこは流石の商人で、鹿丸さんが幻夢鏡をすぐに手に入れてきたというのは驚きだった。また、絵草紙『なくおとそうし』も手に入ったということだ。これら一連のことを、4人が拙者を見舞いに来てくれた時に知った。奉行所の記録やら幻夢鏡の話には合点がいったが、『なくおとそうし』に関してはよく分からなかった。その部分だけ、ごにょごにょごにょと4人が言葉を濁すのだ。話の流れから、八兵エ殿が前から持っていたようだが、どういうことでござるか。
見舞いに来てくれたみなさんを見送るために長屋を出た拙者は、妙晶様と2人で歩いていた。先日の夢の中に入る術を、もう一度試してもらえないか頼もうと思ったからだ。日は、すでに暮れかかっていた。道をどう間違えたのか、いつの間にか拙者達は色街を歩いていた。道の脇に、姿態艶めかしい女どもが立っており、それをからかう男どもや笑いながらあしらう女達の嬌声が聞こえてくる。そんな中で、拙者の頭はぐるぐるぐるぐると回っている。気付くと、拙者は妙晶様の両肩を掴んでいた。「沖ノ進さん、どうしたんですか?」「妙晶様、拙者はもう耐えきれぬでござる。」「え、いや、何をなさるのですか。だめです。だめですってば。」「すみませぬ。拙者も自分で何をしているのか、よく分かっておりませぬ。でも、こうしたいのです。」拙者は妙晶様を無理に抱き締めると、顔を近づけた。その時、がぶりと何かに肩を噛まれたような感触がして、拙者は強い痛みを得た。慌てて妙晶様から離れると、肩口を確認した。着ている物にも肌にも、異常はなかった。その間に、妙晶様は、「ごめんなさい。沖ノ進さん。さようなら。」と言って、去って行ってしまった。胃の腑の底から、例えようもない怒りが込み上げてくる。これが妙晶様に対するものなのか、はたまた自分に対するものなのか、拙者には判別がつかなかった。その深夜、江戸の町中に半鐘の音が響き渡った。拙者が長屋を飛び出すと、鹿丸さんと和泉殿に出くわした。拙者達は、臥煙に向かって駆け出す。臥煙の建物の前には、多くの火消し達が集まっていた。八兵エ殿が大きな纏を携えて、号令をかけている。3人は、火消し達の合間を縫って、八兵エ殿のもとにたどり着いた。「待ってたぜ、みんな。夕刻から、お嬢の意識がねぇんだ。着物は預かったが、やっぱり呪いと切れてねぇんだと思う。そこへ来て、この大火事だ。おれは、火消しで大忙しだからよ。呪いの方は頼んま。」言うだけ言うと、八兵エ殿は、ひらりと屋根へと飛び乗った。
火の粉が舞う。泣き叫ぶ声がする。逃げ惑う人々の群れ。拙者達は人波に逆らって早足で歩く。鹿丸さんが幻夢鏡を掲げながら市中を探るのを、脇から支えたりした。とある辻角に差し掛かった時、拙者はそこに見覚えがあることに気がついた。夢の中で、お梅ちゃんが長身の男と向き合っていた場所だった。「鹿丸さん、この辺りでござる。この辺り、夢で見覚えがあるでござる。」「なんと!分かりました。念入りに調べてみましょう。あ、いました。」鹿丸さんの叫びとともに、通りのど真ん中に長身の男が現れるのが見えた。南蛮由来の首飾りをしているので、夢の中の男だと分かる。男は天を仰いで、大笑いをしていた。「ふははははははは。燃やせ、燃やせ。燃やし尽くせ!徳川の世なぞ、滅んでしまうが良いのじゃ。」「馬鹿者が!」普段温厚な鹿丸さんが、急に怒鳴ったので拙者と和泉殿は吃驚した。「徳川の世に恨みを持つ者か?かつては私もそうだったから、気持ちは分からんでもない。郎党を組んで、転覆を試みたこともあった。だがな、この世の根幹は人の幸せにあるのだ。誰が治めるのかは、問題ではない。天下の民が太平に暮らせることが重要なのだ。」鹿丸さんが幻夢鏡を掲げ続けると、男の姿はやがて完全に見えるようになった。口は裂け、目は吊り上がっていて、一眼でこの世ならざらぬ者であることが分かった。「ほぅ?お主らは、わしが見えるのか。面白い。ふむ、利いた風な口を!やれるものなら、やってみぃ。わしは天草四郎時貞。呪いとなりて、徳川の世を打ち滅ぼす者なり!」通りの右手、左手から業火が立ち昇る。ジャーンジャーン。銅鑼の音とともに、業火の合間を縫って、纏を振りながら屋根を飛び越える八兵エ殿が見えた。「よっ!日本一!」と声をかける者がいる。時貞が振り向いて、そちらに気を取られる。その隙に、和泉殿が拙者に近づいてきた。「沖ノ進殿、頼みがあり申す。以前から、そなたは剣の腕が立つ者と思っていた。ここに、例の『なくおとそうし』がある。この中に、夢幻を立ち切る技について書かれている。使ってもらえぬか?」「和泉殿、拙者の腕を見込んでくださり、有り難く存ずる。しかし、拙者は訳あって、あの妖しを直接斬りたいのでござる。」「そうか。何やら仔細がある様子。そういうことなら、おれがやろう。」和泉殿が十手を地面に置いて、すらりと刀を抜いた。
和泉殿が構えた立ち姿は、なかなかどうして立派なものだった。腰がしっかり据えられており、隙がない。拙者に声をかけたのは謙遜だったのか、または拙者に活躍の場を与えてくれようとしたのか。和泉殿はいつものんびりと蕎麦を食べている印象しかなかったので、これは意外なことだった。時貞は前に向き直ると、にやりとした。と同時に、和泉殿の刀が宙を舞った。「夢幻一閃!」いつの間にか、和泉殿の体が時貞の後ろにあった。時貞は傷を負ったように見えなかったが、その顔からは笑みが消え、心なしかうろたえているみたいだ。拙者は大刀を抜き、さらに脇差を抜いた。「和泉殿、見事でござった。我儘を申して、すまなかったでござる。拙者、将軍家指南役、柳生宗冬様より二刀流の秘伝を受けし者にござる。この技は、妖しにしか通じぬものであったため、かような無体と相なった。では、参る!」拙者は秘剣を遣った。時貞のひざが、がくりと落ちる。まだ、かろうじて息があるようだ。ケーンケンケーン!その時、犬のような犬でないようなものが、時貞に跳びかかった。がぶり!時貞にかぶりつく。ぐぎゃああああああああっ!絶叫をあげて、時貞の姿が薄くなっていく。それとともに、町の火の手も、みるみると小さくなっていく。後ろを振り返ると、両手で複雑な印を結んでいる妙晶様が立っていた。残心ののち、ゆっくりと手を合わせて辞儀をする妙晶様。夜は白み始めていて、あちらこちらから煙が燻っているのが見えた。数日後、拙者は旅支度を整えて、長屋の引き戸を引いた。目の前に、八兵エ殿、和泉殿、鹿丸さん、妙晶様が立っていた。拙者は驚きのあまり、後ろに転びそうになった。「おいおい、黙って行くなんて、ちょっとつれねぇんじゃねぇか、沖ノ字。お嬢もよ、もう話せるぐらいに回復したぜ。」「八兵エ殿、すみませぬ。人伝てに、お梅ちゃんの回復を聞き申したので、旅立つのです。此度のことで、拙者は己の未熟さを痛感いたしました。まったく、自分はてんでだめでした。自分の心に負けて、自分のことばかりで。せっかくの剣を腐らせてしまうところでした。山に篭って、一から修行し直します。」「何を言っておる。沖ノ進殿の剣は、見事であった。正之が言うには、あー、ごほん、幕閣の保科様が言うには、今回の火事の規模は万の死傷者を出してもおかしくないものだったのに、奇跡的に500名程度で済んだようだ。そなたの力のおかげだ。もし、修行が済んで、まだ仕官の道を望むことがあれば声をかけてくれ。下級役人のおれであるが、上役などにかけあってみよう。」「かたじけない。」「今回の件は、将軍様もいたく心配されたみたいですね。明暦の大火の原因とされる女性や被災した人々を助けていた義賊、今は江戸のために働いている元反逆者など、押し並べて恩赦が与えられました。人は人に許されて、人を許すものですね。」妙晶様が手を合わせて辞儀をするので、拙者も丁寧に辞儀を返した。鹿丸さんが、「天下泰平。旅立ち日和。またお会いしましょう。」と言って拙者の肩をぽんぽんと叩いたのが合図となって、拙者は歩き始めた。日本橋を渡るところで、八兵エ殿の元からいつの間にか例の着物が消えたことについて、4人が話さなかったことに思い至った。きっと、要らぬ心配をかけまいとの気遣いであったろう。(完)