おれは車屋円吉。犯罪者だ。犯罪者になりたくて、なったわけではない。小さい頃から、鍵開けが得意だった。変装も得意だった。誰かの物を、知らぬ間に隠すのが得意だった。人を言いくるめるのも得意だったし、美術品を鑑定するのも得意だった。これらの特技を活かす職業が、犯罪者ぐらいしか思い浮かばなかったのだ。行う犯罪の種類は、空き巣、スリ、詐欺など多岐に亘る。グループは組まずに、単独で行うのがおれの主義だ。幸い、これまでに捕まったことはないし、危ない目にあったこともない。あ、いや、一度だけあったな。あれは、七杉というやや裕福な家庭に盗みに入った時のことだ。事前に留守であることは調べあげていたはずなのに、なんと家人がいた。当時、中学一年生の女の子だ。見つかった時、おれは電気工事員の服を着ていた。作業中ですと言って、誤魔化すためだ。しかし、その女の子には通用しなかった。女の子は悲鳴をあげるでもなく、逃げ出すわけでもなく、くすりと笑った。「ふふっ、あなた泥棒さんでしょ。大丈夫よ、黙っててあげる。」今思えば、不思議な女の子だった。黙っててくれると言っただけでなく、金目の物の在処を案内してくれるとまで言ったのだ。おれはその申し出を断った。趣味の延長で犯罪者をやっているおれは、簡単に出来てしまうことには興味がないのだ。すると、女の子は明らかにつまらなそうにして、「じゃあ、他の犯罪のお話をして。」と言った。おれと女の子は、2時間ぐらい喋った。それからというもの、その女の子と仲良くなり、よく連絡を取り合っている。女の子の名前は、由香。由香は、今や高校一年生になり、茶道部に入っている。そう言えば、最近由香から連絡が来ないな。34にもなったおじさんが、JKからの連絡を心待ちにしているのもおかしな話だが、ちょくちょくどうでもいいメッセージをくれていたので、なんだかんだ楽しみにしていたのだ。さては、由香の身に何かあったのだろうか。
4年ぶりに忍び込んだ七杉家で、おれは大変なことを聞いてしまった。由香の母親らしき女性が、誰かと電話で話している。「そうなのよ、政典さん。絶対、何か変でしょう。うん、うん、ええ、由香は今、こちらの病院に入院してるわ。ええ、そうなの、もう一週間近くも意識が戻らないわ。ね、これっておかしいわよね。そう、場所は下田。そう、あの伊豆の突端の所。ええ、天城峠を越えたところよ。そこに学園の合宿所があるの。しろがね館という名前よ。あなたが荷物を取りに行くがてら取材をすることは、もう伝えてあるからよろしく頼むわ。ああ、あと他に何人かつてを辿って調査を依頼してあるから、向こうで合流してちょうだい。ええ、お願いね。」おれは忍び込んできた窓から出ながら、なるほどなと苦笑した。前に盗みに入った時に、由香がうちの親は過保護だから嫌いなのと言っていたことに合点がいった。由香は、だからおじさんみたいな自由そうな人に憧れるのよとも言っていた。おれはその時、30になったばかりだったので、少なからずおじさんという呼ばれ方には動揺したけれども。由香の母親の喋り方はたしかに過保護さに溢れていたが、事態は結構深刻な気がした。おれは準備を整えて、下田に向かうことにした。由香のために、おれに出来ることが何かありそうな気がしたのだ。下田駅のホームに降り立つと、強い磯の香りがした。遠くに、小さな漁港らしきものが見える。ロータリーでタクシーをつかまえて乗り込み、行き先を告げると運転手が陽気に話しかけてきた。「お〜、しろがね館かい?あそこはね、かなり昔、歓楽街だったんだよ。あの建物も、その一部とかなんとかって話だったかな〜。」おれは適当に相槌を打ちながら、どうやって中に入ったものかと考えていた。鍵開けをしても良いのだが、それだとずっと隠れていなくてはなるまい。もっと、スムーズに入れると良いのだが。
しろがね館は、絶壁に立っていた。周りは塀で囲われ、出入り口は大きな門が一つだけ。まるで、要塞のような佇まいであった。門が開いていたので、おれは運転手に中に入ってもらって、建物の前の車寄せで降ろしてもらった。すると、示し合わせたように、車が2台とタクシーが1台、同じように車寄せに止まった。タクシーからは、自分と同じ年頃の男性が1人。肩からカメラをぶら下げている。車からは、和服姿の男性が1人と2人組の男性がそれぞれ出てきた。和服姿の男性はかなりの年配で、顔に深い皺が刻まれている。2人組の男性の片方は、これも自分と年は同じくらい。メガネをかけていて、何かの研究者風だった。もう片方は、この中では一番若く見えた。背の高い、なかなかのイケメンだった。5人の男達は、お互いに頭を下げた。研究者風の男が話し始める。「おー、おー、皆さん、あれですな。由香の件で、どうも。私が七杉政典です。由香の叔父です。いやあ、こんな遠い所まで足を運んでいただいて、いや、ありがたい。しかし、ま、いいタイミングで皆さんと出会えましたな。あ、こちら、モデルのジョン太郎さん。今回の調査に同行いたします。では、ま、ここは海風が強いですからな。まず、中に入れてもらいましょうか。」政典は、先頭に立って歩き出した。しめた!とおれは思った。政典は、由香の母親が電話をしていた相手に違いない。そして政典は、都合の良いことに、おれのことを由香の母親に依頼された人物の一人として数えているようだった。おれは列の後ろから、自然な感じでついていった。政典がインターホンを押す。「はい。どなた様でしょうか?」「あ、どうも七杉由香の叔父の者です。」「お待ちしておりました。話は学園から伺っております。ただ今、参りますので、少々お待ちくださいませ。」
自動ドアのスイッチを入れて、迎えに出たのは、アフリカ系の女性だった。ツヤのある褐色の肌に、美しい銀髪をなびかせた女性だ。女性は、流暢な日本語を話した。「ようこそ、しろがね館へ。私は、ここの管理人をしていますターニャと申します。学園から七杉さんの親戚の方がいらっしゃることは聞いておりましたが、まさかこんなに多いとは思っておりませんでした。おや、あなたは、城ヶ崎さんじゃないですか?今日も、CDの営業ですか?」城ヶ崎と呼ばれたのは、和服の男性だった。城ヶ崎は、ハッハッハと豪快に笑ってから答えた。「ターニャ。今日は違うんだよ。今日は、私もね、七杉さん達と同じなのさ。だから、いつもみたいに門前払いはしないでくれよ。」「そうなのですか?わかりました。それでは、皆さん、どうぞお入りください。」エントランスを抜けると、そこは吹き抜けのホールになっていた。ホールの真ん中には、大きな木が聳え立っている。おれは無類のコーヒー好きなので、その木がコーヒーの木であることがわかった。ただ、少し奇妙だった。コーヒーの木にしては、やけに背が高かった。下田がいかに温暖な気候と言えども、こんなにも成長するものだろうか。おれは木の前で立ち止まって調べてみたい衝動に駆られたが、和を乱すのは憚られたので、ターニャの案内に従って大広間に通された。入った瞬間、度肝を抜かれた。見ると、他の4人も目を白黒させている。それもそのはず。大広間の左右の端と端には、和服姿の女の子達がずらりと正座しているではないか。どの子も背筋をぴっと伸ばして、膝の上で両手を柔らかく組んで、居住まいを正している。ぱっと見だが、全員端正な顔立ちをしていた。「いらっしゃいませ。」女の子達が同じタイミングで頭を下げ、同じタイミングでゆっくりと頭を上げた。すごい規律とマナーだ。と驚いて、大広間の上座に目を向けると、さらに驚くことがあった。
上座の中心に、1人だけ女の子が座っていた。その女の子は他のどの子よりも美しく見えたが、驚いたのはそこではなかった。女の子は、金髪だった。よく見ると、顔も日本人離れしている。「あれは、生粋のフランス人の顔立ちだな〜。」城ヶ崎の独り言が聞こえた。女の子は、他のどの子よりも綺麗な所作で丁寧にお辞儀をした。おれ達も慌てて入口に座り込み、深くお辞儀をした。女の子の動きには、それを強いる無言の凄みがあった。顔を上げると、女の子がニコッと笑って、「どうぞ、こちらにいらしてください。」と言った。おれ達は、なぜだか恐る恐る女の子に近づいた。左右の女の子達は、真面目な顔を真っ直ぐ前に向けて、おれ達のその動きを見守っていた。おれ達が、金髪の女の子の前に座ると、女の子はもう一度頭をしっかりと下げてから、「お待ちしておりました。私は茶道部の部長をしておりますアリッサ・シャトレーヌと申します。」と挨拶を述べた。「あ、これはどうもご丁寧に。私は由香の叔父の七杉政典です。」政典が隣のジョン太郎を見て返礼を促したので、自然にそこから順番に名乗る流れになった。「私はジョン太郎と言いまして、モデルをしております。」「私は城ヶ崎天城と申しまして、この近くに住む演歌歌手です。」「私は椛島一ノ介と言います。一応、ジャーナリストです。」ここで、おれの番になった。おれは用意していた風呂敷包みを前に差し出し、用意していた自己紹介をした。「私は車屋円吉と言いまして、由香さんに、いつも贔屓にしてもらってます和菓子屋です。今日は、私の作りました和菓子をお持ちしましたので、よろしければどうぞ。」これは、あながち嘘ではなかった。おれは実家が和菓子屋で、後を継ぐために修行をさせられていたので、和菓子が作れるのだ。いつもは、表向きに職業を名乗らなければいけない時に方便として使っている肩書きだったが、今回は相手が茶道部ということもあり、うまくマッチした。「あら、それは有難いことでございます。では、みなさん、せっかくのいただき物を召し上がりましょう。お客様に、お飲み物について伺ってちょうだい。」アリッサのその言葉で、左右の女の子達が急に笑顔になって、忙しく立ち働き始めた。
茶道部の女の子達は、抹茶にするかコーヒーにするか尋ねてきた。茶道部でコーヒーとは、これいかにと思ったが、おれは1日に5杯はコーヒーを飲むコーヒー中毒者なので、コーヒーを選ぼうとして銘柄を聞いた。すると、女の子達は一様に困った顔をして、「あの〜、銘柄はわからないんです。ホールの真ん中のコーヒーの木で取れた実を、自分達で焙煎しているものですから。」と答えた。自家焙煎か。おれはかなり興味をそそられたが、ここは無難に抹茶を選ぶことにした。ジョン太郎だけがコーヒーを選んで、他の3人も抹茶を選んだ。今日の手土産は生クリーム入りの大福なので、ジョン太郎も「これ、コーヒーにも合いますね。」と言って食べてくれた。和やかなムードが広がったところで、椛島がアリッサに聞いた。「ところで、由香さんのことなんですがね。倒れた時の状況を教えてもらえますか?」一瞬、場がぴりつく。だが、アリッサが笑顔で答えると、空気は緩んだ。「もちろんです。皆さん、その調査にいらっしゃったんですものね。今回の件は、部員達の安全を預かる者として、大変申し訳なく思っております。由香さんが倒れた時の状況ですが、場所は先ほど見かけられたかと思いますが、あのコーヒーの木の近くでした。コーヒーの木の近くには、古井戸があるのですが、その脇に倒れているのを管理人のターニャさんが見つけました。手にはコーヒーの実が握られていて、その実には齧られた跡がありました。もしかしたら、由香さんが齧ったのかもしれません。」アリッサの説明が終わると、ジョン太郎が呻き声をあげた。見ると何とも奇妙な表情で、カップの中をのぞいている。椛島や政典、城ヶ崎が他にも2、3細かいことを聞いたが、特に目ぼしい回答は得られなかった。簡単なお茶会が終わると、アリッサの隣に部員の1人が座った。その部員は、あらかじめ何かを言いつけられていたようだった。
アリッサが、その部員を紹介した。「こちら、一年生の琴木美緒さんです。由香さんとは特に親しくしていたものですから、今回の案内役を頼みました。皆さんは、彼女を含め部員全員に自由にお話を聞いてくださって構いません。また、どこを見て回っていただいても良いのですが、二階は部員達の部屋となっておりますので、ご遠慮いただきたく存じます。」おれは改めて面々を見渡して、心の中でため息をついた。おれを含めて、見事に男ばかりだな。由香の母親は、なんだって女子の園である茶道部へと出向くのに、こんなむさ苦しい連中しか集めなかったのだろう。「それと、もう1つ。」とアリッサが付け加えた。「こちらにお泊まりいただくことはできませんので、夜遅くなりましたら、お近くに宿をお取りください。一応、ターニャさんがギンタソという民宿に声をかけてくださっていますので、必要でしたらおっしゃってください。では。」アリッサは辞儀をして、すっと立ち上がった。美緒は座ったまま、にこにこして、おれ達のうちの誰かが何かを言い出すのを待っている。「それじゃあ、せっかくですから、コーヒーの木の近くを見させてもらいましょうか。」椛島の言葉で、みんなゆっくりと立ち上がり、そして足の痺れでよろめいた。コーヒーの木を囲みながら、椛島が美緒に由香について質問をしていた。美緒は、明るい調子で答えた。「私達、よくアリッサ部長について話してたんです。アリッサ部長ってかっこいいよねって。」そんな話が続く中、おれ達は井戸を発見したので、詳しく調べてみることにした。井戸は丸太で組まれていた。城ヶ崎と政典が覗き込みながら、話し合う。「あそこに見えるのって乾燥材ですよね。」「そのように、見えますな。」「ということは、この井戸は井戸としては機能していない。」「ええ、つまり、見せかけだけの井戸ということになりますかな。」2人にならって、おれも覗き込んでみた。暗くて良く見えなかったが、底の方に横穴が空いているのが見えた。横穴はやや大きいが、人間が通れそうなサイズではない。横穴から木の根っこらしきものが、少しだけ見えている。ということは、この井戸は、横のコーヒーの木と底の部分で繋がっているのだろうか。
コーヒーの木や古井戸の辺りでは、見るべきものは見たようである。おれ達は相談して、管理人さんに話を聞こうということになった。すると、政典が美緒を説得し始めた。「琴木さん、私は由香の叔父なんです。由香の母親から、由香の荷物を持ってくるように頼まれてるんですよ。いや、わかりますよ。二階は女性の部屋だらけだからね、立ち入れないという理屈はね。でも、ほら、私も由香の母親にね、由香の部屋も見てきませんでしたなんてね、言えるわけがないじゃないですか。何も、皆さんのお部屋を見て回るわけじゃないんです。美緒さんも同行していただいて、由香の荷物を引き取りにいくだけですから。」でも〜とか、そんなこと言われても〜とか、困ります〜とか答えていた美緒が、最終的にはわかりました、部長には内緒にしてくださいよと説得に応じた。ということで、政典と美緒は2階に上がって、由香の荷物を取ってくることになった。おれ達は、もらった見取り図を頼りに、管理人室のドアの前に来た。椛島がノックをする。返答はない。椛島は、今度は無遠慮にドアノブをガチャガチャした。鍵がかかっている。「誰か手先が器用な人はいませんか?」椛島の質問に、城ヶ崎が首を振り、ジョン太郎が首をすくめる。おれはそのやり取りを見ながら、こいつはとんでもないメンバーと一緒になってしまったと思った。この場面でためらいもなく侵入を試みるなんて、犯罪者のおれでもびっくりだ。由香の母親はもしかしたら、とんでもない礼金を約束したのかもしれない。3人がおれを見るので、おれはため息まじりに「やってみます。」と言った。3人が見張りに立つ。さすがに商売道具を出して、本格的に取り掛かるわけにはいかないので、城ヶ崎のヘアピンを借りてチャレンジした。カチ。手応えを感じた時、後ろから「何してるんですか?」という声が聞こえた。
振り向くと、3人の焦る背中越しに、ターニャが近づいてくるのが見えた。おれはヘアピンを素早くポケットに隠すと、なるべく自然に見えるように立ち上がった。ターニャはおれ達の前まで来ると止まり、「ここは私の部屋です。私の部屋の前で何をしてるんですか?」「あー、いやー、さっきアリッサさんからね、由香さんを最初に見つけたのは、ターニャさんだということを聞いてだね。それで、まあ、話を伺えないかと思ってだね。うん。」城ヶ崎が、なんとか取り繕おうとする。ターニャはなおも訝しんだ目つきをおれ達に向けながら、「そうですか。では、後ほど事務室の方にお越しください。ここは、私のプライベートな空間ですので。」「ああ、はいはい、プライベートね。そう、プライベート。じゃ、みんな別の所に行こう。」椛島の号令で、おれ達はそそくさと退散した。おれ達は、次に給湯室に入った。いや、入りかけた。入ろうとしたところで、中から女子部員達の話し声が聞こえてきたので、椛島が人差し指を鼻の前に当てて、皆を制止した。「ほんと、いい気味よね。」「ほんと、ちょっと部長に気に入られてるからって生意気だったのよね、あの由香って子。」「そうそう、なんか鼻にかけてる感じ?」「鼻にかけてるって言えば、美緒って子もよね。」「わかるー。さっき部長から案内役を頼まれた時も、さも当然みたいな顔してたでしょ。図々しいって言うの!」「戻りましたー。あれ、皆さん、どうしたんです?こんなところで止まっちゃって。」これからというところで、政典が美緒と一緒に戻ってきた。当然、給湯室の中の会話は止んでいた。奥の方からバタンとドアの音が聞こえた。きっと、ここ以外にも出入り口があるのだろう。政典がおれ達の微妙な空気を感じて、「あれ、どうしました?なんか、私まずいことしました?」と聞いてきたが、誰も答えなかった。政典はそんな反応は気にせず、嬉しそうに何かを手にぶら下げて見せた。それは、赤い宝石の首飾りであった。おや、とおれは思った。その疑問を、城ヶ崎が口にしてくれた。「これ、さっきアリッサさんが身に着けていたものですか?」「そうなんですよ。同じに見えるでしょ?実はこれ、由香の物でしてね。なんと、美緒さんも同じ物を持っているそうなんです。聞くと、アリッサさんとお揃いの物ですって。2人とも、アリッサさんをかなりリスペクトしてるみたいでね。」美緒が少し誇らし気な様子を交えてはにかむのを、さっきの陰口を聞いていたおれ達はどんな風に見たら良いか分からなかった。
給湯室には、コーヒーの良い香りが漂っていた。テーブルの上には、コーヒーメーカー、コーヒーミル、自動の焙煎機まで並んでいる。ホールのコーヒーの木に実った物を、ここで加工しているようだ。おれとしては、しばらくここに居て心ゆくまで香りに浸っていたかったが、特に調べることはなさそうだった。おれ達は、ターニャと約束した事務室に行った。事務室にはターニャが待っていて、おれ達を中に入れてくれた。話を聞くのは椛島達に任せて、おれとジョンは事務室の壁に掛かっているしろがね館の写真パネルを眺めて回った。「1936年10月」と説明がついている写真の前で、ジョンがおれに耳打ちした。「これ、どう思います?」「どうって、ここの建物の写真じゃないのかい?」「いや、一見同じに見えますけどね。まったくの別物ですよ。周囲の景色は同じですから、たぶん全面的に建て替えられていますね。」「そうなのかい?」そう言われて再び写真をよく見てみたが、違いはよく分からなかった。「由香さんが倒れているのを発見したのは、早朝の6時頃でしたね。夜の9時が門限ですから、誰かが侵入して来たというのは、ちょっと考えづらいのですが、、、」ターニャの述懐が続いている。おれはトイレに行くふりをして、こっそり部屋を抜け出した。実際、トイレには行ったが、目的は用足しではなかった。美緒が事務室で足止めされている間に、彼女に変装して部長に会ってみようと考えたのだ。鍵開け、手捌き、変装の中でも、特に変装には自信があった。自前の変装道具を駆使して、おれは素早く変装を試みた。む、む、むむ、むむむむむ。さすがに34のおじさんが、JKになるのは少し違和感があるかな。もうちょっと練習が必要かもしれない。おれは諦めて、事務室に戻った。
ちょうど椛島達が、事務室から出てくるところだった。ターニャと美緒に加え、アリッサ部長も一緒だった。椛島が声をかけてくる。「ああ、車屋さん、これから夕食どきということで、今日はここまでという話になりましたよ。それで、私は城ヶ崎さんに誘われて、彼の自宅に泊まらせてもらうことにしました。七杉さんとジョンさんは、ギンタソに行くそうです。車屋さんは、どうされますか?」おれは城ヶ崎の家とギンタソの場所を聞いてから、「じゃあ、私も城ヶ崎さんのお宅にお邪魔させてもらいます。」と答えた。城ヶ崎の家は、ここから車で15分ほどだと言う。車で15分なら、歩いて来られないでもない。なんとなく捗々しい情報が得られずに、しろがね館を離れるような気がしたので、夜中にでも戻ってこようかと思ったのだ。城ヶ崎邸では、彼が精一杯もてなしてくれた。さすが漁港が近いだけあって、魚が旨い。酒も振る舞われたので、魚の美味しさが手伝って、ぐいぐいと進んだ。さらに肴として、彼が手品もどきを見せ、本業の演歌も披露してくれたが、これはどちらもぐだぐだだった。おそらく彼が上機嫌で、いつもより酔いが回ってたからだろう。宴もたけなわの頃、椛島の携帯の着信音が鳴った。政典からだった。「あ、はいー。あ、はいー。そうです。椛島です。あ、うん。あ、そうですか。ギンタソの老夫婦からお話が聞けた。そりゃ、素晴らしい。ええ、ああ、そうなんですか?しろがね館は、昔は娼館だったと。名前は、ほう、銀の黄昏館。ふむ、1967年に火事があって全焼したんですか。ええ、ええ。あ、すみません。もう一度。なるほど。1976年に、学園があの土地を買ったわけですね。え?なんですって?それは、興味深い。ぜひ送ってください。」電話を切ると、椛島がおれと城ヶ崎に交互に笑いかけた。「話は聞いてましたね?あのお2人、何やらすごいものを発見したそうですよ。」「すごいものって何です?」おれが尋ねたのと、椛島の携帯の短い通知音が鳴るのは同時だった。椛島が携帯の画面を見た。あれほど赤らびていた顔面が、やや蒼白になる。「うわっ、これはちょっと。まじか?ほら、お2人とも、見てください。」おれ達が見やすいようにと、椛島が携帯をテーブルの上に置いた。
そこには、海岸で佇む金髪の少女が写っていた。「これ、アリッサ部長ですよね?これが、どうかしたんですか?」城ヶ崎が、一体何がそんなにすごいのかといった調子で椛島に聞いた。正直、おれも同じ気持ちだったが、椛島の返答によって血の気が引いた。「そう。そう見えるでしょ?でも、その写真は、どうやら20年前に撮られたものらしいんですよ。ギンタソのご主人が、隠し撮りしたとかなんとか。」「20年前ですって?ということは、アリッサさんの母親?いや、しかし、これはどう見ても、、、車屋さん、どう思います?」「いや、これはあの部長さんに瓜二つですね。」「そう!だから、さっきの電話で、七杉さんも怪しいって言ってました。これは、もう調べに行きましょうよ!」酒の勢いもあってか、椛島が息巻く。いや、この人は酒の力がなくても、言い出したかもしれない。椛島が、すぐに政典達に連絡する。幸いなことに、彼らはまだ一杯やってなかったようだ。20分後、政典とジョンが車で城ヶ崎邸にやってきた。おれ達はすぐに乗り込み、夜のしろがね館へと向かう。しろがね館の門は、当然閉まっていた。みんなで聞き耳を立てる。すると、アリッサ部長が部員達に話しかける声が聞こえてきた。「はい、みんな、もう寝る時間よ。」「部長、少し相談したいことがあります。」「そうなの。わかったわ。」このやり取りから、アリッサ部長が2階にいて、しばらくそこに留まりそうだということが分かった。たしか見取り図によれば、部長の部屋は一階にあったはずだ。おれは、もう躊躇しなかった。みんなの見ている前だったが、パパッと門の錠を開けた。みんなから拍手が送られる。門の中に入ると、しろがね館の全貌が目に入る。昼間は気づかなかったが全体的に窓がほとんどない造りになっていて、暗闇で見るとなんとも不気味な存在感を放っている。おれはエントランスの鍵も開けた。ホールの電気は消えており、誰もいなかった。コーヒーの木の影だけが見える。昼に見られなかったターニャの部屋も気になったが、今はアリッサ部長の部屋を優先する時だ。というのが、全員一致の見解だった。
部長の部屋の鍵も、いとも簡単に開けた時には、もうみんな慣れっこになっていた。部屋の中は、この年頃の女の子らしい感じの可愛いらしい印象だった。その中で、唯一異彩を放つ物が目に飛び込んできた。机の上にある黒いカバーのかかった本だ。本は分厚く、かなり古びていた。おれ達は頭を寄せ集めて、表紙を覗き込む。表紙には、大きなマークが描かれている。楕円形の中に、動物の顔のような、または牙のようなものが描かれているマークだ。いや、そう見えるだけで、意味なんてないのかもしれない。タイトルは、英語で書かれている。アフリカのダークなんとか?すると、英語を読める何人かが言った。「アフリカの暗黒の宗派。」中も英語で書かれていたが、英語を読める人達が、手分けしてざっくりと読み解いていく。たしかに、じっくりと読んでいる時間はない。「何々?えーと、このマークは、ケニアのカルト集団のもので、彼らは他部族を生贄に捧げることで、多くの顔を持つ精霊を作り上げることで知られている?なんじゃ、こりゃ。」「こっちには、精霊は暗く狭い場所を好むため、井戸などで育てるのが望ましいと書いてある。特に、枯れた井戸がいいとか。」「まだありますよ。精霊を育てるには、大量の生贄を必要とする。精霊の魔力を上げるには、最初の生贄の血縁者を必要とするとあります。」おれ達は、緊張した顔を見合わせた。おれは自分の額に、うっすらと冷や汗が滲んでいるのを感じていた。ボーンボーンボーン。部屋の中の柱時計が急に鳴り出し、全員の体がビクッとなる。けれども、誰も声を漏らさなかった。おれ達は、急いで部屋を出た。急いではいたが、ドアは慎重に開け閉めした。出る間際、おれは誰にも気づかれないように、さっきの本を懐に隠すことに成功したが、やはり思い直して置いていくことにした。
ホールのコーヒーの木の影は、部屋に入る前と同じ立ち姿をしていたが、おれには何かが違って見えた。あの木の側には、井戸がある。底に乾燥材が敷き詰められた枯れ井戸が。おれは軽く身震いしてエントランスに向かおうとしたが、椛島が手招きをする。どうやら事務室にも侵入するつもりのようだ。「おれは、そろそろ帰りたいんだが。ほら、あの部長も、もう降りてくるんじゃないか?」おれが小声で言うと、椛島はかぶりを振って、「困るよ。あんたの鍵開けの技術が必要なんだ。実はさ、昼間あんたがトイレに行ってる時に、あのターニャって女が妙な動きをしたんだ。」「そうなんですよ。なぜか、ある棚の前から動こうとしなかったんです。まるで、おれ達に見られたくない物が、そこにあるみたいでしたよ。」政典も援護射撃をするので、おれは仕方なく従った。事務室に入ると、4人とも真っ直ぐにその棚に向かった。そして、がさごそと漁り始める。「これじゃないですか?」ジョンが一冊の薄い帳簿を、机の上に広げた。題名は、しろがね館の間取りとある。おれ達は、いつ事務室の扉が開くかとドキドキしながら、その帳簿をめくった。中には、もらった見取り図と大差のない図面が描かれていたが、一つだけ違う場所があった。それは、大広間の下にぽっかりと不思議な空間が存在していることであった。「なんだろう、ここは?」「地下室みたいなものなのか?もしかしたら、井戸の底と繋がっているかもしれない。」「あ、大広間の隣のここから下に行けそうですよ。今から、行ってみますか?」「さすがに、今夜はもうまずいですよ。明日、行ってみましょう。」というジョンの言葉に、おれも無言のまま激しく同意した。侵入したことがバレないように、出る時にはもう一度鍵をかけ直すのがおれの流儀だ。その手際を見て椛島が、「見事なお手並みですな。」と呑気に褒める。おれは、「これは、あくまで趣味ですからね。人様のうちに入ったことはありませんから。」と嘘をついて、エントランスの鍵を閉めると、10秒後ぐらいにホールの電気がパッと点いた。おれ達は門まで走り、バッと車に飛び乗った。
その夜、おれは悪夢にうなされた。周りを見渡すと辺り一面、火の海だった。そして、逃げ惑う人々。皆、女性ばかりで、夜着を身につけている。髪を振り乱す者。夜着がはだけても、気にせぬ者。煙がもうもうと立ち込めているのですぐには気づかなかったが、ここは建物の中だった。この建物には、窓がない。おれは耐えがたい熱さと息苦しさを感じる。「おかあさーん。助けて。」「いやだー、こんなところで死にたくないよー。」泣き叫んでいるのは、年端もいかない若い女の子達だった。「ダメだったわ。出口は、火で塞がれている!」そう叫んだ女性がいた。おれは、その女性にどこか見覚えがあるような気がしたが、それがどこの誰だったかは分からなかった。途端、女性は意を決したように、走り始める。その先に目をやると、石造りの井戸だった。女性はそのままの勢いで、井戸へと飛び込んだ。一瞬、全ての声が止んだ。パチパチと何かが爆ぜる音だけが聞こえる。その静寂の後、群衆が我先に井戸へと駆け出した。おれも何かに突き動かされるように、井戸へと駆け出した。そこで、おれは目が覚めた。暗闇の中で、荒い息遣いをしていた。布団を握りしめ、全身が汗でびっしょりになっているのが分かる。「車屋さん?」暗闇から、おれの名前を呼ぶ者がいた。おれはからからの喉を駆使して、辛うじて返事をした。「もしかして、おかしな夢を見ましたか?実は、私もなんです。」目が慣れてきて、話しかけてきたのが隣で寝ていた椛島であることが分かった。「え、ええ、火事から逃げる夢を見ました。」「やっぱり!私もですよ!あれ、あの建物、しろがね館ですよね?」「ええ、そうかもしれません。窓がありませんでしたから。」「そう!そして、あの井戸。石造りでしたが、確かにあそこのものでしょう?」「ええ、そう思います。」おれは答えながら、ふらふらと立ち上がり、キッチンへと向かった。とにかく今は、何か飲みたかった。キッチンには、自分の部屋で寝ていた城ヶ崎が先に来ていて、喘ぎながらコップに水を注いでいた。
城ヶ崎、椛島、おれは、そのあとはリビングのソファに体を横たえた。まんじりとも出来そうになかったので、お互いぽつりぽつりと夢の中身を共有した。その内容は、驚くほど符号していた。空が白み始めた時点で、椛島が急に立ち上がった。「七杉さん達に電話をしてみようか。もしかしたら、向こうも同じ夢を見ていたかもしれない。」城ヶ崎とおれは、ぐったりとしたまま、無言で頷いた。椛島が電話をかけると、政典はすぐに出たようだった。椛島の応答するワードから、椛島の予想が果たしてその通りであったことが窺える。政典達は間を置かずに、城ヶ崎邸にやってきた。2人とも目の下にくまを作り、げっそりして見えた。おれ達は、リビングで相談した。「やっぱり、あの夢は私達がギンタソの老主人から聞いた1967年の火事の時の様子ではないでしょうか。」「おれも、その通りだとは思うけどさ。しかし、みんながみんな同じ夢を見るなんて、気味悪いな。」「何か呪いみたいなものでしょうか?あの井戸に、怨念が?」「うん。怨念の線もあるが、あの女の部屋にあった怪しい本が何か関係しているのかもしれないな。どうだろう?皆さん。こんなに朝早く行っても、しろがね館の門はまだ開いてないだろうから、地元の図書館に行ってみないかね?この町の行政サービスはいいから、もうそろそろ開くはずだろう。」城ヶ崎の提案に乗って、おれ達は図書館に向かった。図書館では、二手に分かれた。郷土の資料を調べる組と。あの怪しげな本について調べる組だ。最終的に判明した事実を持ち寄って、おれ達はさらに暗澹とした気持ちになった。まずは、郷土史の新聞だ。火事のあった1967年のもの。火事の様子を伝えていた。現場はとにかく凄惨な有様で、当時娼館だった銀の黄昏館に住んでいた女性達はほぼ全員亡くなったらしいと報じている。おれは読みながら、夢の状況を思い出して胸が締め付けられた。確かめるまでもなく、他の4人も同じに違いない。
おれ達の目を一際引いたのは、次の一文だった。「なお、遺体はほとんど見つかっていない。ただし、井戸の中から大量の手と足だけが黒く焦げた状態で見つかっている。窓のない館の作りが燃焼温度を高め、骨まで焼いてしまったのかと当局は首を捻っている。」おれ達はその謎の答えを求めるように、ケニアの宗教について書かれた本を開いた。そちら担当のジョンと政典によると、とてもマニアックな本なので書架を探しても見つからなかったとのことだ。だが、幸運にも宗教学者がたまたま図書館に来ていて、書庫に眠っていることを教えてくれたらしい。その本には、例のマークが載っていた。解説も似たようなことが書かれていたが、新しい情報も2つほど得ることができた。1つは、精霊は蛇のような実体を持ち、自分でエサを捕食することができること。もう1つは、部長の部屋の本にも書かれていた、精霊の育つ場所は枯れ井戸が適しているという部分が強調されていたことだった。おれ達は顔を見合わせて、目配せをし合った。どうやら目標は、定まったらしい。日も高くなり、しろがね館に行くには十分な時刻と思われた。しろがね館の門は開いていた。エントランスも開いていた。ホールに出ると、コーヒーの木の下に数人の部員達がいた。しかし、何やら様子がおかしい。6人の部員達が、1人の部員を取り囲んでいるように見える。取り囲まれているのは、なんと美緒だった。美緒は怯えているように見えた。明らかに、空気はぴりついている。椛島がずかずかと、その輪に向かっていった。「やあ、琴木さん、おはよう。今日も、案内してもらえるのかな?」おれからは背中しか見えなかったが、椛島は笑っているようだった。もちろん椛島が鈍感なわけではなく、おそらく窮地にある美緒を助けようと行動していることは分かった。
取り囲んでいた部員達が、険しい目つきを椛島に向ける。その様子を見て、おれ達も近づこうとした。キィィィィィィィィィィ!突然、悲鳴のような金切り声のような大きな音が、井戸の中からホールに響いた。おれは、たまらず耳を塞ぐ。他の4人も部員達も、耳を塞いでいた。なぜだか、美緒だけがぽかんとしている。その美緒の背後にある井戸から、土埃が上がった。そして、おれは見た。確かに見た。舞い上がる大量の土埃の中に、くねくねとうねる太い蛇のようなものを!部員達も、それを目撃したのだろうか。けたたましい叫び声をあげて、逃げ出していった。そちらに気を取られている間に、土埃も蛇のようなものもいつの間にか消えていた。おれ達はそれぞれに、耳から指を外した。「あの、皆さん、どうしたんですか?」美緒が心配そうに尋ねてきた。椛島が驚いて答える。「いや、どうしたって、今すごい声が聞こえたでしょ?まるで、この世のものとは思えないような。」「え?私には聞こえませんでした。私には、優しい女性の声が聞こえました。あの声、なんだか懐かしかったな。ああ、おばあちゃんの声に似てたのかも。」その言葉を聞いた政典が、何かにピンときたようだった。政典は、美緒に切羽詰まった様子で話しかける。「琴木さん、あなた、逃げた方がいい。詳しいことはおれ達にも分からないから、うまく説明できないけど、あなたの身に危険が迫っていると感じるんだ。あなたに、由香のようになって欲しくない。」「え?え?どうしたんですか?いきなり。そんなことを言われても、私。まだ合宿の日程は残っているし。それに、私、この地にある先祖の墓参りをしようと思ってるんです。」「この地に、先祖のお墓があるんですか。なるほど。分かりました。では、せめて私達と一緒に行動してください。」政典の強い口調に、美緒はこくりとした。
おれ達は美緒と共に、大広間に向かった。大広間には、アリッサ部長とさっき逃げた部員達がいた。部員達の顔は、恐怖で引き攣っていた。アリッサが昨日とは打って変わって、冷たい視線を向けてきた。「あら、またいらしたんですか?その後、何かわかりまして?」「ええ、色々と分かったものでね。ちょっと一緒に来て欲しいんだが。」椛島の誘いを、アリッサは素気なく断った。「あら、ごめんなさい。これから、ちょっと学園の用事で出なければいけないんですの。せいぜい頑張ってくださいね。美緒ちゃん、あなたは自分のルーツに自信を持っていいのよ。それでは、皆さん、ご機嫌よう。」そう言って、うっすらと笑みを浮かべたアリッサの美しい表情は、美しいだけに凄味を増していた。おれ達は気圧されて、それ以上何か言える者はいなかった。アリッサが去ると、おれ達は昨夜見つけた間取りにあった地下への梯子を探した。それはすぐに見つかったが、椛島が足をかけたところで、政典が待ったをかける。「椛島さん、もしもですよ。あの精霊というか、化け物というかが地下にいるとしたら、どうします?」「どうしますと言っても、七杉さん、そりゃ、行ってみないことには分からないでしょう。他に何かできることでも?」「ええ、ちょっと思いついたんです。ほら、枯れた井戸のことが強調されていたでしょう。ということは、井戸に水を流してみてはどうかな?と思いまして。」「なるほど。それは、いい考えですな。もし、井戸と地下室が繋がっていて、私どもが溺れそうだったら、すぐに電話するので、止めてくださいよ。ハッハッハ。」喋っている途中で椛島が降り始めたので、梯子の穴から笑い声だけが聞こえてくる形となった。ジョンは、上で政典を手伝うようだ。おれはちょっとだけ迷ったが、美緒も地下について行くみたいなので、地下を選ぶことにした。
地下は、思いのほか広かった。それに薄暗かった。手探りで壁を触ってみる。どうやらコンクリート製のようだ。這いつくばってみるが、床に水が流れ込んできている様子はなかった。城ヶ崎が、「おや?ここに変な穴があるな?だが、中には何もなさそうだ。」と呟いた。すると、部屋のどこからともなく、優しい女性の声が聞こえてきた。「みんなを、みんなを支えてあげなさい。」「誰だ?誰かいるのか?」「いや、誰かいる感じはしない。」「でも、声は聞こえましたよね。皆さん。」椛島と城ヶ崎とおれは、部屋中に響く声で会話をした。椛島がまた大声をあげた。「ダメだ。何か妙だ。一度上に戻ろう。琴木さん、城ヶ崎さん、車屋さん、戻りますよ。」おれ達は転ばないように気をつけながら、上に戻った。上では、ジョンが迎えてくれた。「ああ、ちょうど今、七杉さんの手伝いが終わったので、後を追おうと思っていたところでした。どうでしたか?下は?」おれが説明をしようと口を開きかけたところで、ジョンがさらに質問を重ねた。「あれ?琴木さんは?たしか、一緒でしたよね?」おれ達は周りを見渡し、梯子の穴を覗いた。オロロロロロロローン。地下から、思わず身震いせずにはいられないような空恐ろしい声が聞こえてきた。おれ達は、急いで下に戻った。今度は、ジョンもついてくる。地下に戻ると、部屋の真ん中に美緒らしい影が立っていた。おれが「琴木さん!」と声をかけて美緒の肩に手をかけると、想像以上に強い力で振り払われた。美緒が一点を見つめながら、「邪魔をしないで。私、おばあちゃんに言われたの。私が生け贄になって、火事で亡くなったみんなを支えてあげるようにって。みんなを支えるのは、私にしか出来ないって。」と感情の籠らない声を発する。
「車屋さん、失礼!」と、ジョンが柔らかく私を押し退けた。ジョンは胸ポケットからコインのようなものを取り出すと、美緒の目の前でゆっくりと揺らした。ふらっと美緒が倒れるのを、ジョンがしっかりと抱え込む。「私は、一度上に行って、琴木さんを休ませてきますね。」「待ちなさい!」地下室の奥から、ジョンと美緒を呼び止める声がした。「ジョン君、行きなさい。ここは、我々に任せて。」椛島は言うが早いか、勇敢に地下室の奥に向かって走った。城ヶ崎とおれも、後を追った。椛島が立ち止まり、天井を見上げる。城ヶ崎とおれも、少し離れて立ち止まる。椛島が見ている場所が、怪しく蠢いた。かと思うと、にゅるにゅるにゅると蛇のようなものが何本も這い出してきた。蛇の頭が一斉に椛島に近づく。「うわああああああ!」椛島が頭を抱えて、梯子に向かって走り出した。椛島がいなくなった後を見て、椛島がなぜ発狂したかをおれは理解した。蛇の頭という頭には、人の顔がくっついていた。どれも女性の顔だ。真ん中の一番大きな蛇には、夢の中で最初に井戸に飛び込んだあの女性の顔があった。女性達は皆、こちらを睨んでいた。おれも椛島のように逃げ出したかったが、足がすくんでいる。「城ヶ崎さん、どうしましょう?化け物ですよ。」「落ち着こう。車屋さん。化け物だけど、少しおかしくないかな?」城ヶ崎の言葉で冷静になって怪物を見てみると、確かに何かがおかしい。睨んでいると感じた形相は、どうやら苦しんでいるようにも見える。ぴちゃんぴちゃん。蛇の頭から、水が滴り落ちる音が聞こえた。どうやら政典の勘が当たったようだ。「車屋さん、上で七杉君が頑張ってくれているようだ。ここで、私達にできることをしてみようではないか。」「できること?できることって何でしょう。」「何でもいい!何か考えてみるんだ。私はそうだな、、、よし!」そう言うと、城ヶ崎は歌を歌い始めた。昭和歌謡を代表する女性歌手の代表的なあの歌だ。いや、たしかに水をイメージする歌ではあるけれども。
心なしか化け物は、さっきよりも苦しんでいるように見える。城ヶ崎の歌声が、彼女達の心を揺さぶっているのだろうか。まず、そもそも、彼女達はこの歌を知っているのだろうか。おれは余計に混乱する頭で、自分にできることを必死に考えた。そして、昨日トイレでうまくいかなかった変装を、もう一度試してみることにした。手早く美緒に変装すると、おれは化け物に話しかけた。「ねえ!」「ああ、美緒。美緒や。戻ってきてくれたのかえ。」化け物の真ん中の顔が、弱々しく応じる。ラッキーなことに、地下室の暗さがおれの変装を完璧なものにしているらしい。おれは自信をもって、言い放った。「私、生け贄になんかならないから!」ギィヤァァァァァァァ!!長い断末魔のような悲鳴が聞こえたかと思うと、化け物の動きが止まり、天井からだらんとぶら下がった。その一本一本から、今や滝のように水が流れ落ちていた。「ハッハッハ!やりましたな!すぐに七杉君達に教えてやりましょう。」城ヶ崎は、あくまで自分の歌が功を奏したことを信じて疑わないようだ。おれは自分の変装が何かに貢献したのか、はたまたしていないのか、もやもやしたまま梯子をのぼった。ホールでは、ホースやバケツを使って水を井戸に大量に流し込んでいる政典とジョンがいた。城ヶ崎が2人に、下であったことを報告している間、政典はちらちらと何度もおれの方を見た。変装を解く時間がなかったおれを、きっと化け物の一部と思っているに違いない。ようやく報告が終わり、おれが変装を解いた頃、大広間に寝かされていた美緒の目が覚めた。美緒は何も覚えていなかったが、おれ達はあえて教える必要はないと思い、黙っていた。エントランスを出た所で、気を失っている我らが英雄、椛島を見つけた。椛島も何も覚えていなかったが、こちらには城ヶ崎邸で全てを伝えた。数日後、おれは病院の前で、椛島からの通知を受け取った。椛島と政典が協力して、あの事件の後に調べ上げたことがいくつか書いてあった。アリッサとターニャは、事件の日から行方不明であること。コーヒーの木は枯れてしまったこと。銀の黄昏館の火事の際に、美緒のひいおばあちゃんである大利根セイが亡くなっていることなどであった。おれはお礼の返信を打ってから、病院の入り口をくぐった。手には、お手製の大福を持っている。抹茶味にしようかカフェオレ味にしようか迷ったが、ここはやはり抹茶にした。おれは足取り軽やかに、由香が移ったという大部屋の病室を目指した。(完)