バスは次第に都会を離れ、窓外には鄙びた景色が広がってゆく。ズキン!右目の上が痛んだ。う、と声を漏らして、私は痛んだところを手で押さえた。「大丈夫ですか?」前の座席に座っていた女性が振り向いて、声をかけてきた。ショートヘアの美人だ。すらっとしつつも健康的な体つきから、おそらく何かのスポーツ選手かと想像できる。「あ、はい。」と、私が答えると、女性は続けた。「でも、失礼ですけど、だいぶ痛そうに見えます。」そうだろうなと、私は思った。教授として勤務する大学で、逆恨みした学生達の集団に襲われたのが二週間前。図体はでかいが筋力はからきしの私は、ぼこぼこにやられた。その時の打撲痕が、見えるところ見えないところ問わず残っていた。「ああ、大したことはないです。見た目は派手ですけどね。ところで、あなたも治験ですか?」私が尋ねると、女性は目を輝かせた。どうやら心配の言葉は口実で、そちらの話をするのが本命だったようだ。「そうです。ということは、あなたもそうなんですね。見たところ、このバスに乗っている方は少ないけど、皆さん、そうなんでしょうかね。」中型のバスの車内には、私達以外には4人がそれぞればらばらに座っている。学生ぐらいの年頃の若い女性、暗い影のある中年男性、やたらと鏡を見ているやや年のいった女性、そしてひときわ恰幅のある男性がいた。年も見た目も、統一性はない。特に案内や紹介はなかったが、製薬会社に指定された場所に来たバスに乗り込んだわけだから、おそらくみんな治験対象者なのだと思う。「同じ場所から乗り込みましたからね。おそらく、そうなのでしょう。私は、治験は初めてなんです?あなたは?」「私も初めてなんです。だから、不安で。どなたか経験者の方はいらっしゃるんでしょうか。」心配そうに胸元を握りしめながら、女性はきょろきょろとした。
女性に合わせて私もきょろきょろすると、暗い影のある男性と目が合った。男性は目が合うとニヤッとして立ち上がり、こちらに近付いてきた。そして、私の隣に座ると、「私はね、治験は5回目なんですよ。」と言った。「5回目、すごいですね。どこか痛くなったり気持ち悪くなったりはしますか?」女性が尋ねる。「いやあ、今までそんなことはありませんでしたね。朝起きた時、ちょっとハイになっていたことはありましたが。ハッハ。」男性が笑う。その笑い声に誘われて、私も気になっていることをいくつか聞いてみた。どの疑問にも明確な科学的な答えが得られたわけではなかったが、聞いてみたことで多少すっきりした。何事も先達はあらま欲しきものなり。「私は三扇司門。私立探偵をやっております。まあ、とは言っても、迷い猫探しや不倫調査が専門で、あまり儲かってはいませんがね。だから、たまに治験に来て、小金を稼ぐわけですよ。よろしかったら、こちら。」司門は、名刺を渡してきた。ぼくは受け取って、自己紹介した。「私は、瀨在タケルと言います。大学で、心理学などを教えています。」「私は、佐々木リエです。あまり有名じゃありませんが、バレーボールの選手です。」リエの言葉に、司門がすぐに反応した。「そうでしたか。スポーツのインストラクターの方かと思っておりましたが、アスリートの方ですか。アスリートと言えば、ほらあちらにも。」司門は、恰幅のいい男性を指差した。「あちらは、力士ですよ。佐田ノ海。知りませんか?一時期は、十両までのぼったことのある。」佐田ノ海が振り返りもせずに、すっくと立ち上がった。そのまま、どしどしとこちらに歩いてくる。私達3人の前まで来て立ち止まると、こわい顔つきで見下ろしてきた。
その勢いに気圧されたように、司門がつかえながら言う。「や、やあ、佐田ノ海関。今、あなたの話をしていたところなんですよ。」佐田ノ海関は、大きな口をさらに大きく開けて笑った。「そうでござろう。そんな気がしたから、来たでごわす。そうでござったか。わしのことをご存知?いや、嬉しいでごわす。」司門もリエも、ほっとした感じで笑った。私も同じ気持ちだったので、佐田ノ海の語尾に違和感も感じず、一緒に笑った。佐田ノ海は、一瞬リエの隣に座ろうとしたが、すぐに無理だと悟って、通路をはさんだ席にどかっと腰を下ろした。「いやはや、出発地から誰か話しかけてくれないかと待ってたでごわす。数多の強者を相手にしてきたわしも、さすがに未知の薬の前には不安で一杯でごわすからなぁ。」そこからは佐田ノ海、リエ、私が妄想にも似た心配を語り、司門が笑いながら否定するという時間が流れた。「いやぁ、皆さん、想像力が豊かな方ばかりですなぁ。」と司門が両手を挙げた時、私達はそばに1人の女性が立っていることに気付いた。学生ぐらいの年頃の女性の方だった。リエとは違ってやや不健康そうな印象はあるが、こちらも美人だった。女性はいかにも勇気を振り絞りましたといった様子で、「あ、あの、私も混ぜてもらってもいいですか?」と言った。4人が口々に、もちろん大歓迎ですよ、どうぞどうぞと手を広げると、女性は佐田ノ海の後ろの席に座った。「あの、私、沢木カンナと言います。大学生です。さっきからずっと、皆さんのお話を聞いていました。私も初治験です。よろしくお願いします。」カンナの挨拶は、まるで何かのスポーツを初めて始めるかのようなノリだったので、みんなが笑った。ひとしきりカンナも心配を出し尽くしたところで、リエがおそるおそる言った。「あのぅ、あちらの方もお誘いした方がよろしいですよね?」みんなが、一番奥の座席に座っている女性を見た。
先程まで鏡を見ていた奥の席の女性は、今は真剣な表情でタブレットを睨んでいた。あまりにも真剣なので、私達が見ていることにも気付かないようだ。バスの車内の人間は、運転手を除けば、彼女以外はここに集まっていた。彼女が疎外感を感じてはいまいか。そこを慮ってのリエの発言だったと思うが、彼女にとっては要らぬ気遣いかもしれない。どうしたものかと考えていると、司門がすかさず立ち上がった。「そうですね。お邪魔かもしれませんが、一応お声だけはかけてみましょう。」周りが治験初心者ということもあって、多少先輩的な道義を感じたのかもしれない。司門はすたすたと女性に近づき、「失礼ですが、話しかけてもよろしいですかな?」と言った。女性は集中を解き、司門を横目で見上げた。「何かしら?」「私、三扇司門と申します。実は、今あちらで今回の治験について盛り上がっているところでして。もしよろしければ、あなたもご一緒にいかがですか?」「これは、ご丁寧にどうも。私は、宝来かのこよ。お誘い、ありがとう。でも、今手が離せないの。もうすぐ株式市場が閉まる時間なのよ。目が離せない銘柄があってね。お話は、また後でお伺いするわ。」そう言うと、かのこはにこりとした。真顔で近寄り難い雰囲気の時にはわからなかったが、笑うと目尻に軽くしわが寄って、それが可愛らしい印象を与える。けんもほろろに断られるのではないかと席で見守っていた人々は、そっと胸を撫で下ろした。「ありがとうございました。意外と優しそうな方でしたね。」誘いに立たせてしまった責任を感じたのか、リエが、戻ってきた司門に小声で言った。小一時間ほど、私達5人は談笑を続けた。年も職業もばらばらなのに、いや、ばらばらだからか、話に花が咲いた。その間に、バスは小さな町につき、買い物客で賑わう夕方の商店街を通り過ぎ、山を登り、その中腹にある研究所らしき建物の前で停まった。
出迎えたのは、白衣を着た製薬会社の研究員達だった。私達はすぐにロッカールームに導かれて、そこで緑色の検査着のようなものに着替えさせられた。採血、X線、診察を終えて、最後に青いカプセルを一錠飲まされた。全て終わった時は、夕食時だった。夕食は豪華だった。夕食後、私達は大きな部屋で過ごした。申し訳ないがと前置きした上で研究員が説明するには、お互いに体調に変化があった際にすぐに分かるので大部屋にしているということだった。「こちら英国より取り寄せた珍しい茶葉ですのよ。」と、かのこがみんなにお茶を振る舞ってくれた。深い香りがただよい、心身ともにリラックスさせてくれた。私は趣味の手品を披露したが、失敗した。仕方ないので、心理テスト的なジョークでお茶を濁した。「あなたの前にコップがあります。さて、何が入っているでしょうか。」ジュースやスープ、水など各々が答えた後、「それは、あなたが今飲みたいものです。」と言った。ほとんどが苦笑する中、カンナだけがとても驚いて、「すごい!!当たりです!!本当に分かるものなんですね!!」と言うので、私は少し心が痛んだ。一人ひとりが身の上や得意なことを話して、和やかなお茶会となった。かのこが持ってきたウェッジウッドのティーポットが間もなく空になろうという頃、カンナが切り出した。「みなさんは、何で治験に参加したんですか?」司門がお金のためと答える。リエと佐田ノ海が、怪我の治癒が早くなる試薬と聞いたからと答える。かのこがアンチエイジングの画期的な試薬だと聞いたからと答える。私は恥ずかしながらと学生に暴行を受けたことを明かして、身体能力を高める試薬だと聞いたからと答えた。「そうなんですね。みなさん、ところどころ食い違っているのが気になりますが、私は体の新陳代謝を早める薬だと聞いたからです。実は、私、転移性壊疽死病という持病を患っていまして、この試薬がうまくいけば治るかもしれないと聞いたので、期待をかけてみることにしました。」カンナが笑って言った。
「ごめんなさい。なんか深刻な話をしちゃって。」カンナが落ち込むと、かのこが「いいのよ。とても素敵な目的だわ。あなたのためにも、治験に参加して良かったと思えたわ。」と、なぐさめるように言った。それは自分も同じだというふうに、私も含めた他の人達が頷いた。それが終わりの合図となり、お茶会は解散した。寝る場所は大部屋の中のそれぞれ離れた場所に、カーテンで間仕切りされていた。慣れない環境であり、試薬を飲んだという興奮もあって、なかなか寝付けないと思っていたが、意外とすんなりと眠りに落ちた。「おい、瀬在さん。瀬在さん、起きてください。」目覚めたのは、司門の声によってだった。ああ、おはよう、もう朝ですかと私が言うと、司門は「それがですね。時計を見ると、もう13時なんですよ。」と言った。私がびっくりしながら仕切りカーテンから出ると、そこには司門、佐田ノ海、リエ、かのこがすでに起きていて、腕組みをして立っていた。「13時って、本当ですか?たしか、昨日の研究員の話では、7時頃に起こしに来るってことでしたよね。」私が誰に聞くでもなく話すと、佐田ノ海が引き取った。「そうでごわす。あの薬、睡眠薬でも混じっていたのでごわすか?」「あれ、カンナさんは?」ふと気付いて、私は尋ねた。4人は無言で、奥のまだ仕切りカーテンのしまっている場所を一斉に見た。なんで私を起こして、カンナさんを起こさないのか。不思議に思いながら、視線の先に向かって歩いて行くと、その理由はすぐに分かった。仕切りカーテンの内側から、いびきとは異なる変なうめき声が聞こえてくる。「この声、夜中にも聞いた気がするんですよね。」リエが後ろでつぶやいた。「何度、声をかけてもこんな感じなんです。開けてみますか?」司門がカーテンに手をかけると、「待って、やっぱり女性の私が。」とかのこが代わった。
かのこの手でカーテンが引かれた。同時に、かのこと司門が叫ぶ。うわああああ!リエと佐田ノ海が駆けつけ、悲鳴をあげる。明らかに良くない状況が広がっていることは予想がついたので、気は進まなかったが私も覗き込んだ。そして、血の気が引いた。ベッドの側に、得体の知れない生き物が蠢いていたからだ。大きさは人間ぐらい。しかし、間違いなく人間ではない。ぶよぶよした肌、その色は真っ青で、顔と思しき部分はただれているかのように歪んでいる。もちろん、うめき声の発生源はその化け物からだった。気を取り直した司門とリエが構えた。かのこは呆然と立ち尽くしている。佐田ノ海は構えていないが、立っているだけで構えている風があった。私は臆面もなく、佐田ノ海の背に隠れた。「これって、、」「どういうことなんでしょう。」構えている2人が言う。「まるでゾンビのような化け物でごわす。」「でも、よく見て。私達と同じ検査着を着てるわよ。」かのこの言葉に、リエが反応する。「もしかして、この化け物は、カンナちゃんってこと?カンナちゃんが、化け物になってしまったのかしら。」「ということは、攻撃しない方がいいのか?たしかに、うなるばかりで、向こうから襲ってくる気配はなさそうだ。」司門が言うと、かのこがカンナちゃんにゆっくり近づく。すると、化け物は自身のそばにある女性物のポーチを投げてきた。それが、かのこの額に当たる。「痛っ、ちょっと襲ってきたじゃない!」かのこが怒る。リエが構えを解かずに、それをなだめる。「かのこさん、落ち着いてください。敵意がないのは本当のようです。というよりも、どちらかと言うと今のは何かに怯えて投げてきた感じでした。」「体だけの変化ではなく、心も変化してしまったということでしょうか。とにかく、ここにいても始まりません。研究員の元に、向かいませんか?」一刻も早くこの場を離れたくて、私は佐田ノ海の後ろから提案した。
とりあえず暴れる危険性はなさそうなので、化け物もしくはカンナちゃんを置いて、研究室に全員で向かった。そこには惨状が広がっていた。ドア、壁、ロッカー、パソコン、いたるところに血が飛び散っていた。そして、パソコンデスクの影に、どうやら人らしきものが倒れているのを見つける。リエと司門が、勇敢にも駆けつける。そして、すぐに首を横に振った。「駄目です。亡くなっています。ズタズタに切り刻まれています。おそらく、ここに落ちている斧で殺されたんだと思います。服から見るに、研究員の1人です。化け物ではありません。」司門がなかなか近付いて来ようとしない私達に対して、声を張り上げて状況を説明をしてくれた。澱みなく無駄がないのは、職業柄だろうか。「引き続き、この辺りを調べてみることにします。」リエも声を張り上げる。頼もしい2人だ。佐田ノ海はパソコンを調べてみると言う。あの太い指でキーボードが打てるのか心配になったが、なるべく死体の近くには行きたくないので、任せることにした。私はかのこと一緒に、ロッカーの私達の私物を取ることにした。みんなの私物は無事だった。特に荒らされた形跡もない。少なくとも強盗が入ったわけではなさそうだ。さらにガサゴソとしていると、「みなさん、こっちに来るでごわす。」と佐田ノ海に呼ばれた。行くと、佐田ノ海がその太い腕を震わせながら、パソコンの画面を指差している。画面には、次のような内容が書かれていた。研究所で事故が起きたこと。その事故が原因で、この町にゾンビが徘徊していること。ゾンビに襲われると感染してゾンビになること。このままでは日本が危ないこと。そのため、政府が町ごと空爆を検討していること。「なによ、これ。どういうこと。ゾンビって、あの映画でよくあるやつでしょ。そんなの現実にあるわけないじゃない。」かのこが金切り声を出す。「いや、あそこで倒れている研究員はゾンビにやられたのかもしれないでごわす。そして、さっきの化け物がゾンビなのかもしれないでごわす。あ、まだファイルがあるでごわす。」佐田ノ海が器用にマウスを扱い、ファイルをクリックする。ファイルは三つあった。一つ目は、今回の治験計画だ。6人に青い薬を投与したが、1人にはプラセボを投与したと書かれている。二つ目は、青い薬についてだ。しかし、このファイルはタイトルだけが読み取れて、中のデータは文字化けしていた。三つ目は、赤い薬についてだ。赤い薬は今回の事件を受けて、急遽開発されたもので、人間のゾンビ化を元に戻す作用があると書かれている。ただし、人間が摂取すると命の危険があり、また急遽作られたものなので一つしかないとも書かれていた。また、研究員の所感として、第2研究所で散布する必要があり、大事なものなので、第2研究所に行かないと開かないロックケースに入れたと追記されている。
あまりのことに、私達はしばらくの間、無言で顔を見合わせた。その静寂をかのこが破る。「もういや。もうたくさん。私、帰るわ。ほら、さっきロッカーから出したみんなの私物よ。私はこれで、執事に電話するわ。」かのこはみんなの持ち物をパソコンの隣の机の上に広げると、自分は電話をかけた。「あ、もしもし、セバスチャン。私よ、かのこよ。ねぇ、早く迎えに・・・。」かのこの表情が固まる。かのこは無表情のまま、スマホのスクリーンを指で押し、通話音声をスピーカーに切り替える。ウォ、ウオオオオ、ウォゥ。スピーカーから聞こえてきたのは、さっきの化け物が発していたのと似たうめきであった。かのこが通話を切ると、私は軽く咳払いをした。「んん、皆さん、冷静に整理してみましょう。ゾンビ化は、かなり広範囲に広がっているみたいです。おそらく、私達は青い薬を飲んだおかげで、ゾンビ化を免れています。カンナちゃんは、プラセボを飲んだため、ゾンビ化してしまったのでしょう。ここまでで異論はありますか?」4人がいいやと手を振るのを確かめてから、さらに言った。「私達が今すべきことは、赤い薬を探すこと。そして、その赤い薬を第2研究所とやらに届けることです。」「でも、第2研究所はどこにあるでごわすか?パソコンには、これ以上有益なデータは見つからないでごわす。」「それなんですが、死体のポケットからこんな物を見つけました。」司門が、両手を前に出す。そこには、地図らしき物と金属製でかなり頑丈そうな箱があった。「これって、もしかして?」私の質問にかぶせるように、司門が答える。「そうだと思います。さっき試したんですが、この箱はどうにも開きませんでした。そして、この地図には第2研究所の名前が入った場所に大きく丸がしてあります。たぶん、この所感を書いた研究員が、あそこで倒れている彼なんだと思います。」「私は、こんな物も見つけました。彼が手にしていたケースです。」リエはしゃがみこんで、持っていたアタッシュケースを床で開いた。中の物を見て、私は度肝を抜かれた。およそ製薬会社の研究所にふさわしくない武器が詰め込まれていた。拳銃一丁に散弾銃、そして手榴弾。私は、ごくりと唾を飲み込んだ。「なんでこんな物があるでごわすか?この研究所は、ヤバいでごわす。」「なんであるかはわからないけど、これがあれば、ゾンビに対抗できるかもしれないわ。はい、これは瀨在さん、あなたが持っていてください。」リエに拳銃を手渡される。拳銃なんて使ったことがないので返そうと思ったが、リエがおそらくこの中で一番弱そうな私を選んで渡してくれたのが理解できたので、黙って受け取ることにした。地図によると、第2研究所は山の麓にある。昨日バスで通ってきた商店街を突き抜けたところだ。歩いて行くには遠い。研究所の館内図に従い、私達は地下にある駐車場へとおそるおそる向かった。幸いなことに、ゾンビには会わなかった。駐車場には、軽自動車と大型のバイクが停まっていた。当然のことだが、鍵はささっていない。しかし、司門が死体の隣に落ちていた斧で軽自動車の窓ガラスを割り、「こんなの朝飯前ですよ。」と言いながら、プラグを繋いで、どちらも動かせる状態にした。探偵はおそろしい。リエと司門が運転が得意だと言うので、リエが軽自動車を、司門がバイクを運転することになった。軽自動車に佐田ノ海と武器ケースを乗せると、あと1人乗れない。かのこは司門とタンデムすることになった。
山道はくねくねとしていた。しかし、これはくねくねしているからというレベルじゃない。車は揺れに揺れた。おいおい、リエさん、運転得意じゃなかったのかいと心の中でこっそり思ったが、口に出すのはやめた。というよりも、つかまるのに必死でそんな余裕はなかった。ドガッ。山を降り切ったところで、車は電信柱にぶつかって止まった。エアバッグが出たので、ぼくらにケガはなかった。キキィ、ガラガッシャン。バイクが「にこにこ商店街へようこそ」と書いてある派手な看板にぶつかって止まった。司門は上手に受け身を取ったが、かのこは頭から血を流していた。みんなが心配して、かのこに近寄る。「す、すみません。頭の中が奇妙に揺れて、うまく運転ができませんでした。大丈夫ですか?」と司門が気遣うと、かのこは起き上がって、服の汚れを両手で払った。「うん、なんともないみたい。」かのこは平然としているが、それにしては結構な血の量だ。はらはらして成り行きを見守っていると、リエが「私も運転中、頭の中がぐわんぐわんと揺れているようでした。すみません、言い訳になってしまうかもしれませんが、これは青い薬の副作用かもしれませんね。そして、これも可能性ですが、かのこさんが痛みをあまり感じないのも、副作用ではないかと。」と言った。なるほど、一理ある。私達は納得し合い、商店街に足を踏み入れた。途端に、強烈な違和感を感じる。その原因は、すぐに分かった。人が一人もいないのだ。それだけではない。物があちらこちらに散乱している。シャッターを下ろしている店が多い。そのシャッターが、大きくへこんでいる店もたくさんあった。私達は躊躇したが、背に腹はかえられない。地図を再度確認したが、第2研究所へは、商店街を抜けるしかないようだ。私達はなるべく目立たないように、店々の壁に沿って歩いた。もう少しだ。もう少しで、商店街を出られるという所まで来た。目の前には、森が広がっている。私は今にも走り出したい衝動に駆られたが、我慢した。だが、それも意味はなかったようだ。うおおおおお〜ん。雄叫びのような声とともに、前からゾンビが歩いてくるのが見えた。1、2、3、なんと9体もいる。私達は逃げようと考えて、後ろを振り返り、さらなる絶望を味わった。後ろからもゾンビが迫っていたのだ。後ろにも9体。
どうやら戦う以外の道はない。私は拳銃を取り出した。かのこが散弾銃、佐田ノ海とリエが手榴弾、司門が斧を構えた。私達はゾンビをもう少し引き寄せてから攻撃した方が良いと考えて、構えたまま待った。けれども、ゾンビは近づいて来なかった。いや、やっぱり近づいては来ていた。だが、その動きがあまりにも遅過ぎるのだ。「あの動きなら、逃げることもできるんじゃない?」かのこが言った。司門がダメだろうと答えた。「ゾンビどもは、横に一列に並んでやがる。我々の脇はどちらも店舗で、シャッターが下りてる。やはり戦うしかない。」焦らされながらもゆっくりと待って、ようやく射程内に入ったところで一斉放火した。大方のゾンビは手榴弾で吹っ飛び、散弾銃で倒れた。私も手を震わせながら拳銃を撃ち、一体を倒した。そこに、さらにもう一体現れたので、私は銃口を向けた。「待ってください、瀨在さん。よく見てください。」リエの言葉で私は呼吸を整えて、銃口の先を見た。ゾンビかと思った者は、人であった。青年が両手を挙げながら、じりじりとこちらに歩いてくる。そんなに遅い動きをしてるから、ゾンビと間違えるんだよ。と私は感じたが、それよりもほっとする気持ちの方が大きかった。何と言っても、目が覚めてから、治験メンバー以外では、初めて生きた人間を見たのだから。
「良かった。人間に会えた。」そう言った青年は、この町の生まれだった。青年曰く、朝起きたら、周りがゾンビだらけだったそうだ。すぐに自警団を結成して対抗したそうだが、彼は一度、気絶してしまったらしい。彼が気づいた時にはすでに、自警団の仲間達はゾンビになってしまっていたそうだ。ゾンビの着ていた服が、仲間の着ていた服だったから、わかったという。彼から得た有益な情報としては、朝のゾンビは速かったそうだ。今襲ってきたゾンビは、遅かった。ゾンビは朝の方が、活動が活発ということだろうか?青年は今、森の奥の病院から来たとのこと。町の人間は病院に立てこもっていて、青年は置いてけぼりの人間がいないか、勇気を振り絞って見に来てくれたのだ。「あなたがたも、病院に来ませんか?仲間が多い方が安心でしょう。」と青年が誘ってくれた。地図によれば、この先の分岐路を右に行けば病院、真っ直ぐ行けば第2研究所だ。有難い申し出だったが、私達は手短に、ゾンビ化を直す可能性があることを説明し、研究所に行くことを告げた。「それは、またとない話です。ぼくは病院に戻って、町の人々に伝えます。あなたがたの成功をお祈りしています。」私達の話を聞くと、青年は顔を輝かせて、元の道へと走っていった。
第2研究所は、屋上がラッパのような形をした建物であった。おそらく、あのラッパの形の装置で、散布ができるのだろう。ようやく辿り着いた喜びで浮き足だった私達は、第2研究所の前にまたゾンビのいることを発見して愕然とした。ゾンビは二体いた。どちらも第1研究所の研究員と同じ白衣を着ている。第2研究所も占拠されてしまったのだろうか。ゾンビらは誰かを襲っていた。よく見ると、少年だった。相変わらずゾンビの動きは緩慢だが、少年は足を引きずっていて逃げきれないでいるようだ。ゾンビが少年に気を取られている隙に、司門とリエが背後から頭を殴って気絶させた。「ありがとうございます。」少年が礼を言った。「足、怪我してるみたいだけど大丈夫?」かのこが心配する。少年が足をさすりながら話す。「はい、大丈夫です。今、そこの病院から脱出してきたところなんです。脱出する時に、ゾンビに引っかかれたんですけど、どうやらゾンビにならずに済んだようで、ほっとしました。」「病院だって?病院は、生き残った人達の基地になってるはずでは?」私は、さっきの青年から聞いた話を元に湧いた疑問をぶつける。「いいえ、病院は朝からゾンビで溢れ返っていますよ。ぼくは以前から病院に入院していて、ずっとゾンビの群れから脱出するチャンスを伺っていたんです。」私達は頭を突き合わせて、少年に聞こえないように声をひそめた。「どういうことでごわすか。さっきの青年が、嘘をついていたでごわすか。」私達は、さっきの青年かこの少年がデタラメを言っているのだろうと一時的に結論づけたが、今はとにかく第2研究所に入ることを優先しようということになった。私達は少年に、彼を疑っていることは伏せつつ、ゾンビ化を直す希望について教えた。私達は、少年とともに第2研究所に入った。それとなく、彼から目を離さずに。
なるべく静かに、第2研究所に忍び込んだ私達は、広いホールのような場所に出た。そこは天井が高くなっていて、中央にはあのラッパの部分の下にあたるところと思われる装置と大きなコンピューターが設置されていた。近づこうとすると、コンピューターの前にゾンビが一体いた。ゾンビはこちらには気づいておらず、コンピューターに接続された大きなモニターと向き合ってウオウオ喚いている。この個体も白衣を纏っているので、元は研究所の職員かと推測できた。みんなの視線を感じて、私はそろりと拳銃を取り出した。頭を狙ったつもりだったが、しかしと言うべきかやはりと言うべきか、弾丸は肩に当たった。幸いなことに、ゾンビは衝撃で倒れる際に頭を床に打ちつけて気絶した。ゾンビの呼吸を確かめる時に、ゾンビの白衣の胸についたネームプレートが目に入った。肩書きに、第2研究所所長と入っていた。カチン!いきなり何かが外れる音がした。司門の持っていた金属製の箱が、パカリと開いた。箱の中から、赤い薬のカプセルがたくさん詰まった透明なビンが出てきた。「おお、これでごわす。これが、ゾンビ化を直すと書いてあった赤い薬に違いないでごわす。早速、このゾンビに飲ませてみるでごわす。」全員同意の上で、佐田ノ海の言に従って、リエが倒れているゾンビに赤い薬のカプセルを一錠飲ませた。飲ませる際に、手をいきなり噛まれないように、かのこや私が注意を促した。ゾンビがカプセルを飲み込んだ。全員が固唾を飲んで見守る。ゾンビの呼吸が止まった。そこから何か変化があるのかと、感覚で約2分待ったが、ゾンビは息一つせず横たわったままだ。
「どういうことなの、これは?」少年以外の治験メンバーの気持ちを、かのこが代弁した。「赤い薬をゾンビに飲ませれば、元に戻せるって話だったわよね。死んじゃったじゃない。」かのこは、今にも泣き出しそうだ。「え?え?青い薬を飲ませてみましょうよ。生き返るんじゃない?」「いや、でも、青い薬なんて我々は持ってないですよね。」と私が指摘すると、「実は、、」とリエが青い薬のカプセルが詰まったビンをポケットから取り出した。第1研究所で倒れていた研究員が持っていた物を、何かの役に立つかもしれないと持ってきていたとのことだった。リエが今度は青い薬を、倒れているゾンビに飲ませる。すでに自分で飲み込む力は失われていたので、無理に押し込んだ。何の反応も起きない。私達が呆然と立ち尽くしていると、少年がおずおずと気兼ねしながら、外に気絶しているゾンビが2体いることを思い出させてくれた。私達はすぐに外に出た。ゾンビ2体は、まだ気絶して倒れたままだった。「どうするでごわす?」「もう一度、赤い薬を飲ませてみますか?」と司門。「でも、また死んじゃったら?」とかのこ。「じゃあ、今度は青い薬を飲ませてみませんか?」とリエ。「そうですね。ゾンビには悪いけど、試してみましょう。」と私が頷くと、リエが率先して青い薬をゾンビに飲ませる。3回目ともなると、流石に手慣れた様子だった。すると、たちまちゾンビが人間の男性の姿になった。「やった!」6人の声がそろった。「よし!もう一体にも飲ませるでごわす。」リエが、もう一体にも飲ませる。すると、たちまちもう一体が、人間の女性の姿になった。「よし!これで確定でごわす。何とか装置を操って、赤い薬を散布するでごわす。」私達は研究所の中に戻ろうとしたが、かのこが考え込むように立ちすくんでいた。誰かが理由を聞く前に、かのこが疑問を呈する。「さっき、所長が死んでしまったのは何でかしら?ねぇ、残酷な話かもしれないけど、人間に戻った2人のどちらかに赤い薬を飲ませてみない。」「でも、たしか赤い薬は、人間が摂取すると命の危険があると書いてあったでごわす。」「だから、残酷だけどと前置きしてるのよ。でも、考えてもみて。ゾンビを元に戻すはずの赤い薬は、ゾンビを元に戻さなかった。それに、一つしかないはずの赤い薬が大量にあった。まあ、これは一ビンしかないという意味だったのかもしれないのだけど。何かがすれ違ってる気がするのよね。」かのこは引かなかった。
議論の末、私達はゾンビから人間に戻った気絶中の男性に赤い薬を飲ませることにした。議論の末ではあったが、反対意見があったわけではない。大方は、推論の応酬であった。もちろん、薬飲ませ担当のリエが飲ませた。なんと!人間の男性は、姿をゾンビへと変えた。「わけがわからないでごわすな。赤い薬は、実はゾンビ化させる薬であったでごわすか?赤い薬と青い薬、どちらを散布すれば良いでごわすか?」佐田ノ海が頭を抱えた時、ゴオオオオという轟音と共に、森の上を通過していくものがあった。それは、戦闘機であった。5、6機はいるようだ。「まずい、時間がない。あれは、政府の空爆用の戦闘機じゃないか?」私が言うと、かのこが苛立つ。「じゃあ、どうすればいいの!」「あのさ、こんなことはないとは思うんだけど、」と焦ってフランクな口調になっている司門が仮説を披露する。「実はさ、私達がゾンビなんじゃないの。で、ゾンビ同士はお互いが人間に見えて、ゾンビからは人間がゾンビに見えるの。だから、さっきの所長はゾンビに見えたけど、実は人間だったから赤い薬を飲んで死んじゃった。なんて、そんなことはないか。」司門が頭を掻きながら言い終わるのが早いか、みんなで司門を指差して「それだ!」と叫んだ。司門の仮説にのっとり、私達は覚悟をして赤い薬を飲んだ。私達に変化は感じられなかったが、同行していた少年と倒れている女性の研究員の姿がゾンビに変わる。当然、男性の研究員の姿は人間に戻った。少年から見れば、今は私達がゾンビに見えているだろうが、さっきの私達の話をきちんと理解しているためか逃げることも襲ってくることもなかった。
後は、話は簡単だった。青い薬がゾンビ化させる薬で、赤い薬はゾンビ化を元に戻す薬。でも、赤い薬を人間が摂取するのは危険。現在、町にはゾンビと人間の両方がいる。ならば、一度青い薬を散布して町の人全員をゾンビにしてから、赤い薬を散布して戻す。所長は死んでしまったけれど、研究員を叩き起こして2つの散布を実行してもらった。ゴオオオー。戦闘機が去っていく。これで、あらゆる意味で危険は去ったわけだ。第1研究所に戻った私達を、カンナが笑顔で迎えてくれた。「ああ、良かった、皆さん。起きたら皆さんがゾンビになっていた時は、どうしようかと思いました。」第1研究所には、かのこの執事のセバスチャンもマイクロバスで迎えに来てくれていた。「ああ、かのこ様、ご無事で何より。かのこ様よりの通話で、ウオウオ聞こえた時は、わたくし生きた心地がいたしませんでした。」カンナを含む治験メンバーは、セバスチャンのマイクロバスで帰ることにした。帰りながら、わいわいと色々なことを振り返った。誰が喋ってるのかわからないぐらいに、盛り上がった。「青い薬が人間の代謝を異常化させて、ゾンビみたいにしたのね。」「私はプラセボだったから、人間のままだったんですね。」「ゾンビ化してたから、運転が下手になってたのね。ああ、良かった。ちょっとショックだったんです。」「町で出会った青年は、ゾンビに襲われてゾンビ化したから、仲間がゾンビに見えたんでごわすな。最初のゾンビはゾンビだから速くて、ゾンビに見えた人間は遅かったということでごわすな。」「第2研究所の前で会った少年は、直前に引っかかれてゾンビ化していたから、私達には人間に見えたのでしょう。」話は尽きなかったが、誰も触れないことが一つあった。それは、私達が商店街で吹っ飛ばした、動きの遅かったゾンビ達のことである。(完)