松岡外相は独ソ戦開始後、ソ連への進駐を主張した松岡外相は陸海軍両統帥部からも非難を受けるようになり、さらに松岡は、7月15日、アメリカ側に6月21日のハルのオーラルステートメント拒否の電訓を伝えるよう、政府並びに外務省アメリカ局局長寺崎太郎を通さず、直接ワシントンの野村に流すという行為に出ます。
この件に関し木戸(政治家、昭和天皇の側近)は、「理由不明瞭なる政変になりかねず、内閣が不一致の可能性がある」と示唆。近衛に対し松岡の辞職を求めるか、もし出来ない場合は、内閣総辞職か組織拝命の再降下、すなわち内閣改造をする形をとる様、事態収拾を求めます。
結局、この意見を受け、近衛は翌7月16日、辞表を天皇陛下に奉呈。第2次近衛内閣は総辞職をします。
翌7月17日、重臣会議が開催され、近衛に首班再降下すべしと云う意見に集約し、7月18日、第3次近衛内閣が発足。新外務大臣に海軍出身の豊田貞次郎を任命します。
これにより、松岡は日本の政治の表舞台から去ります。
その後、松岡は、戦時中は結核を煩い以前とは別人となったように痩せ細り、昭和20年(1945年)、友人である吉田茂から和平交渉のためモスクワを訪れるよう相談されますが、ソ連が拒否したため幻に終わります。
終戦後、極東軍事裁判(東京裁判)にてA級戦犯として法廷にあがりますが、裁判中に病状が悪化。昭和21年(1946年)6月27日、東大病院にて66年の生涯を閉じます。
松岡の行った外交は、日米交渉を混乱に陥れ、日米開戦の重要な要因の一つになったのは事実です。
実際、外務大臣が豊田に替わった後も、アメリカ側は厳しい要求を迫っており、ますます溝が深まりました。
これは、松岡が外相に就任し、松岡旋風という外務省内を枢軸派一色に染め上げた人事で、英米派の外交官が著しく減っていた事もあり、まともにアメリカとの交渉が出来ない環境も影響しました。
また、日独伊三国同盟締結は、アメリカから資源を供給している、日本にとっては死活問題であった点を踏まえ、後日松岡は「締結したのは失敗だった」と述べております。
第2次近衛内閣が退陣し、新たに改造内閣として、第3次近衛内閣が発足した頃、日本では、南部仏領インドシナ進駐の計画が着々と進めておりました。
この計画は、アメリカが北部仏領インドシナの援蒋ルートとは別に開設した新援蒋ルート(ビルマルート)への牽制の意味が表の理由です。
しかし、経済制裁による資源不足や、輸出不況により外貨獲得が困難な状況の日本の本音としては、東南アジアへの進出による、資源調達を確保すること、また、そのルートを早期に確立する事が統帥部、政府共通の懸案事項でした。
しかし、経済制裁による資源不足や、輸出不況により外貨獲得が困難な状況の日本の本音としては、東南アジアの進出による、資源調達を確保すること、また、そのルートを早期に確立する事が統帥部、政府共通の懸案事項でした。
ここで、日本が南部仏領インドシナ進駐すれば、日米関係は非常に厳しい状況になることを統帥部、政府とも理解していたのでしょうか。
フィリッピンにアメリカのアジアにおける根拠地があり、南部仏領インドシナ(今のベトナム)とカムラン湾を挟んで対岸にあることからすれば、日本のアメリカへの挑戦という意味を持っています。
また、不思議なことはアメリカからの資源(石油・屑鉄など)を頼りにしているアメリカを相手として戦争しようとするのは、どう考えても、その意図が分かりません。