昭和3(1928)年、関東軍作戦主任参謀に赴任した石原莞爾は満蒙問題解決としての構想を発表しています。
それは、満州をしっかり確保し、発展させ国力を養う、中国とは戦わずに手を結んで、最終的には中国の協力を仰ぎながら、日中共同で満州を育てていく、というものでした。
この構想からすると、独自の戦略観と理想というものがうかがえますが、後には陸軍という組織内の論理により、満蒙領有論から満蒙独立論へと転向していく中で満蒙領有論を利用されてしまい曖昧な戦略観の日本軍にあって、際立った戦略観の持ち主は昭和16(1941)年に予備役に編入されています。
石原莞爾が満州でやろうとしていたことは、その戦略観による理想実現に向けたものであったようで、日本は国防体制の整備刷新を完成させ、東アジアの民族を連盟させなければいけないと考えていました。
そのために、張作霖亡きあとの東北軍司令官である張学良を掃討し、武装を解除して満州を平定する。そして軍政下において治安を維持する。
満洲国民への干渉は極力避け、日本、朝鮮、中国の三民族の自由競争により産業を育成するというもので後に満州・蒙古両民族を加えて「五族協和」というスローガンになります。
この構想を受けて参謀本部は「満蒙問題解決方策大綱」を作成、これが満州事変へとなっていきます。
“失敗の本質”というテーマで、このようなことを取り上げるのは戦略観と組織の関係を捉えられれば、ということからです。