1939(昭和14)年7月下旬、ノモンハン方面の関東軍司令部は攻勢から守勢持久に作戦変更を命じますが8月4日、参謀本部は関東軍第二十三師団の上に第六軍を設置することを決定していますが、この新設第六軍と現地関東軍の関係を半藤一利氏の「ノモンハンの夏」より引用します。

新設の第六軍は、軍司令官は荻洲立兵中将(17期)、参謀長は藤本鉄熊少将(26期)、以下優秀な参謀が名をつらね、形式としては軍の威容が成ったようにみえる。ただし荻洲をはじめとして、関東軍やソ連軍について、満州の地形や気候についてなど、必要な予備知識をほとんど持たない面々である。

 

参謀本部はなぜこのような人事配置をしたのか疑問を抱かざるをえない。

中央のいうことを聞きそうな幕僚で固めたと勝手な想像をしたくなる。

突然に出来た新設第六軍を現地の関東軍は冷淡に見ていました。

辻の手記はいたって冷ややかである。

「未だ戦場に不慣れの新設軍司令部をもって、この困難な戦場の指揮に当たらせることは、何としてもお気の毒である。

勝ち誇った戦場ならばともかく、破れそうな茅屋を、雨漏りのままで譲ることに、限りない責任を感じていたのは植田将軍以下全員の気持であった」

 

だからといって、関東軍のほうから第六軍に幕僚数名を送って、有効な援助をするといった措置は、まったくとられていない。

 

第六軍が編制された以上、関東軍としては、「その地位を尊重し、干渉がましい態度に出ないよう注意を払い、もっぱら連絡の任務に限定」したと、辻は聞こえのいいことを書いている。

敵が八月攻勢をしかけてくるであろうという情報がしきりの折柄、関東軍はあとのことは知らん、俺たちは手を引いたというのである。

ソ連軍の八月攻勢が情報しきりの重大局面で、新設された第六軍をめぐり参謀本部作戦課と関東軍参謀の確執だけが表面化し陸軍中央と関東軍の意思疎通を欠いたまま、それぞれの思惑だけが先行していたと言えるのではないでしょうか。