1939(昭和14)5月末に終結したと思われたノモンハン事件は、同年6月18日~19日にかけてのソ連軍航空機による自国主張の国境を越えての攻撃が第二次ノモンハン事件の発端となり、関東軍は少壮参謀を中心として、ソ連軍の攻撃を「放置できない情勢となった」として超積極的な作戦方針を決定します。

 

この参謀連による作戦方針決定の経緯について、半藤一利氏の「ノモンハンの夏」より引用いたします。

高級参謀の寺田がまず口を切った。

「ソ連軍のこの暴挙ともいうべき攻撃に、関東軍司令官がその防衛の任務からして、これを撃破駆逐すべきは当然のことである。‥‥天津問題解決の途がひらけるまで、しばらく静観するほうがいいのではないかと考える」

おそらくはこれが正論であったかもしれない。

ソ連機空爆の被害が許せぬくらい甚大であったわけではない。

しかし、辻が憤然として反駁した。

「ことここに及んでノモンハンを放置することはできない。ここで黙っていてはソ連軍になめられるだけである。さらに大規模の侵犯攻撃をやってくるであろうし、そうなったらイギリスもまた日本の実力をみくびり、天津問題での態度を硬化させてくるにちがいない。

第一次ノモンハン事件の経験もあるゆえ、その戦訓をふまえ、こんどは徹底的にソ連軍を撃破できる自信もある。日英会談を効果ならしめるためにも、わが北辺の武威を発揮することが重要なのである」

さらに辻は声を大にした。「傍若無人なソ蒙側の行動にたいしては、初動の時期に痛撃を加えるべきである。それ以外に良策はない。そもそも不言実行は関東軍の伝統である。‥‥」

眼光炯々(けいけい)、容貌魁偉(かいい)、なにものも恐れぬ辻参謀が頭に血をのぼらせて説くのである。しかも、能動的積極的な意見は好感をもって迎えられ、受動消極の意見は蔑視される、という軍人共通の心理がある。

会議では「過激な」「いさぎよい」主張が大勢を占め、「臆病」とか「卑怯」というレッテルを貼られることをもっとも恐れる。

辻参謀とは、辻正信参謀のことであり辻参謀の強硬論に服部卓四郎作戦班長が賛意を表したことで作戦課の意見は一致しました。

辻の原案を基礎に関東軍は、「ノモンハン方面における越境ソ蒙軍を急襲しその野望を徹底的に破摧す」という超積極的な作戦方針を決定した。

この参謀たちの発言の中で出てくる天津問題とは、天津のイギリス租界で起きた親日派の関税委員殺害犯引き渡し要求を、イギリスが拒否したため1939(昭和14)年6月14日、陸軍が英仏租界を隔離して境界に陸軍部隊が立ち、電流を通した鉄条網を張り、身体検査など検問を行なったイギリス領事館との揉め事のことです。