日本は島国で周囲を海に囲まれているので領海ということは別にして、陸地において他国と国境を接するということは現在ではありませんが1932(昭和7)年の満州国の独立により前回7月11日に取り上げました「日満議定書」で否応なく国境というものを意識させられることとなります。
その国境というのは満州とソ連の国境ということは日本とソ連の国境でもありました。
それでは半藤一利氏の「ノモンハンの夏」より関係のある部分を紹介・引用しながらノモンハン事件について見ていくことにいたします。
以下、半藤一利氏の「ノモンハンの夏」より
ソ連は、満州国建国にたいしては静観を表明し、あえて否定することはなかったが、国家として認めたわけでもない。満州の大地はいぜんとして中国領とみている。
となると、新生満州国が国家としてあらためて国境線についてソ連と協議するわけにはいかない。
結局は、それ以前に清国とロシアの間で話し合われた画定された国境線が、ソ満国境ということになる。
ところが、この国境線が、いたるところでまことに不明瞭なのである。
たとえば平均一八キロごとに一個の石の界標が設置されたというが、長い年月のあいだに失われ、東部国境線にはわずかに十個しか残されていなかった。
それも明らかに双方とも、自分の有利な地点へと勝手に動かしてあったりした。
このような、あいまいな国境線による紛争が続発し1938(昭和13)年に満州国東南端の張鼓峰で日本軍とソ連軍が戦火をまじえる張鼓峰事件が発生しソ連軍の猛攻を受けたことにより、参謀本部としてはソ連軍との全面対決とならないように、ということ(侵されても侵さない)を関東軍に求めていました。
張鼓峰での羹(あつもの)にこりてすっかり腰がひけて、それがあいまいなまま、とにかく何もするなでは、国土防衛を任とする軍隊の存立そのものを否定することになるではないか。
これが関東軍のいい分である。
そして、ここに関東軍司令部の第一課(作戦)参謀辻政信少佐(36期)が颯爽と登場してくる。
昭和十四年三月の人事異動で関東軍の第一課(作戦)に参謀本部から、第三課(編制・動員)寺田雅雄大佐(29期)と服部卓四郎中佐(34期)、ならびに作戦課から辻と士官学校同期の島貫武治少佐(36期)が転入してきた。
参謀本部の意思は、これら陸軍中央勤務をへた参謀を送りこむことで、いま課題となっている「対ソ西正面作戦」すなわちハイラルを起点として、ホロンバイル地方から一挙に作戦終末線のバイカル湖に向かって決戦を求める乙案が、はたして可能かどうか十分に研究してもらおう、ということにある。
あくまで現地で研究するためで、積極的な攻勢など夢にも考えていなかった、という。
上記は半藤一利氏の「ノモンハンの夏」より必要な部分を引用いたしました。
満州国には満州国軍という軍隊があるものの、国内の治安維持や国境警備を任務としていた関東軍の後方支援部隊という性格であっただけに満州国の防衛は日本軍(関東軍)が担っていました。
張鼓峰事件はソ連軍を過小評価していた参謀本部が威力偵察的な軍事行動に対してソ連軍は機械化された戦力を投入してきました。
この張鼓峰事件と満州国境に対する関東軍の対応がノモンハン事件へ、となっていきます。
その国境というのは満州とソ連の国境ということは日本とソ連の国境でもありました。
それでは半藤一利氏の「ノモンハンの夏」より関係のある部分を紹介・引用しながらノモンハン事件について見ていくことにいたします。
以下、半藤一利氏の「ノモンハンの夏」より
ソ連は、満州国建国にたいしては静観を表明し、あえて否定することはなかったが、国家として認めたわけでもない。満州の大地はいぜんとして中国領とみている。
となると、新生満州国が国家としてあらためて国境線についてソ連と協議するわけにはいかない。
結局は、それ以前に清国とロシアの間で話し合われた画定された国境線が、ソ満国境ということになる。
ところが、この国境線が、いたるところでまことに不明瞭なのである。
たとえば平均一八キロごとに一個の石の界標が設置されたというが、長い年月のあいだに失われ、東部国境線にはわずかに十個しか残されていなかった。
それも明らかに双方とも、自分の有利な地点へと勝手に動かしてあったりした。
このような、あいまいな国境線による紛争が続発し1938(昭和13)年に満州国東南端の張鼓峰で日本軍とソ連軍が戦火をまじえる張鼓峰事件が発生しソ連軍の猛攻を受けたことにより、参謀本部としてはソ連軍との全面対決とならないように、ということ(侵されても侵さない)を関東軍に求めていました。
張鼓峰での羹(あつもの)にこりてすっかり腰がひけて、それがあいまいなまま、とにかく何もするなでは、国土防衛を任とする軍隊の存立そのものを否定することになるではないか。
これが関東軍のいい分である。
そして、ここに関東軍司令部の第一課(作戦)参謀辻政信少佐(36期)が颯爽と登場してくる。
昭和十四年三月の人事異動で関東軍の第一課(作戦)に参謀本部から、第三課(編制・動員)寺田雅雄大佐(29期)と服部卓四郎中佐(34期)、ならびに作戦課から辻と士官学校同期の島貫武治少佐(36期)が転入してきた。
参謀本部の意思は、これら陸軍中央勤務をへた参謀を送りこむことで、いま課題となっている「対ソ西正面作戦」すなわちハイラルを起点として、ホロンバイル地方から一挙に作戦終末線のバイカル湖に向かって決戦を求める乙案が、はたして可能かどうか十分に研究してもらおう、ということにある。
あくまで現地で研究するためで、積極的な攻勢など夢にも考えていなかった、という。
上記は半藤一利氏の「ノモンハンの夏」より必要な部分を引用いたしました。
満州国には満州国軍という軍隊があるものの、国内の治安維持や国境警備を任務としていた関東軍の後方支援部隊という性格であっただけに満州国の防衛は日本軍(関東軍)が担っていました。
張鼓峰事件はソ連軍を過小評価していた参謀本部が威力偵察的な軍事行動に対してソ連軍は機械化された戦力を投入してきました。
この張鼓峰事件と満州国境に対する関東軍の対応がノモンハン事件へ、となっていきます。