昭和20(1945)年9月2日、アメリカの戦艦ミズーリ艦上で日本は降伏文書に調印し降伏というかたちで戦争を終えましたが、日本占領の統治計画について半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回3月28日の続きを見ていきます。

以下、
半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より

これが「無条件降伏」だったか、よく問題になります。
たしかに一条件を出して、それをのんでもらったので無条件ではないということになりますが、よくよく考えれば、GHQ(連合国最高司令部)がつくった新憲法によって、少なくともこれまでもってきた日本の国体、天皇主権の国家は否定され、国民主権の国家になったわけですから、天皇の身柄はたしかに象徴というかたちで助かったものの、結果的には出した一条件さえ無視されていたことになるのではないかと思います。

そうでありますが、よくぞあのくそ暑かった夏に降伏によって戦争を終結できたものよ、との感を深くするのです。

拙著『ソ連が満州に侵攻した夏』にも書いたことですが、アメリカの三省(陸軍・海軍・国務)調整委員会は、早くから日本占領の統治政策について研究討議を重ねていました。
結果として、その第一局面の三ヵ月間はアメリカ軍八十五万が軍政をしいて日本本土を統治するが、次の第二局面の九ヵ月間は、米・英・中国・ソ連の四ヵ国が進駐し、これを統治する。

この場合、日本本土を四つに分けて、関東地方と中部地方および近畿地方を米軍三十一万五千、中国地方と九州地方を英軍十六万五千、四国地方と近畿地方を中国軍十三万(近畿地方は米・中の共同管理)、そして東北地方と北海道はソ連軍二十一万が統治する。
さらに東京は四ヵ国が四分割して統治する、という決定をみていたのです。

そして、これが成文化されたのが、なんと、昭和二十年八月十五日のことであったというじゃありませんか。

上記は
半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。

連合国は日本についてもドイツと同様に日本本土の分割直接統治を計画していましたが最終的に日本政府を通じた間接統治の方針に変更されています。
分割直接統治が変更された理由として、いろいろありますが、国民の崇拝の対象であった天皇を通して統治した方が統治し易いと判断されたようです。

日本が分割直接統治を免れたことは敗戦という状況下では戦後の再建につながるものだったと言えるのではないでしょうか。