「失敗の本質」より沖縄戦について、沖縄南西諸島方面を担当する第三二軍は台北会議の後、大本営から第三二軍から一兵団の抽出を求められ精鋭の第九師団転出のやむなきに至り、その後は減少した兵力で新たな防衛計画を策定しました。

防衛計画の策定後第三二軍は陣地組織の状況を詳細に検討した結果、陣地の配備変更を行い本島南部の防備は堅固となりましたが北・中飛行場方面に進攻してきた場合の米軍に対する攻勢企図は放棄され、大本営等が重要視していた飛行場の制扼はきわめて不十分となりました。

このことは地上戦を重視する第三二軍の配備変更に対し、航空関係者および第三二軍の親部隊である第一〇方面軍からなされた北・中飛行場方面の防備強化に関する要望と指導沖縄戦の全過程を通じて問題となる、この時に第三二軍の後詰め兵団の補充として第八四師団の派遣内示と中止の朝令暮改事件が起こります。

台北会議は沖縄から一兵団抽出後の後詰め兵団についてはまったく触れることなく、要領を得ないままに終わっていました、しかし、大本営陸軍部作戦課長の服部大佐は昭和19年12月11日から13日に行なわれた新任の宮崎作戦部長に対する状況説明で沖縄は一個師団欠の状態であるので補充の必要性があると強調しました。

明けて昭和20年1月16日、大本営は第八四師団を沖縄へ後詰めとして派遣することになり1月22日第八四師団派遣の電報を第三二軍に打電、しかし、派遣内示の発信後、宮崎作戦部長は、第八四師団の派遣問題について熟考したすえ、「沖縄への海上輸送の危険を知りながら、たとえ約束があったとしても、一兵たりとも惜しい本土防衛力をみすみす海没の犠牲にすることは忍びない。統率上の悪影響を及ぼすことも十分想像されるが、この際は一切を忍んで派遣中止すべきである」として参謀総長の決裁を得て派遣中止となりました。

比島攻略後の米軍の次の目標が沖縄となる公算が最も高いとみなされていて、米軍上陸の機を捕捉して大打撃を与えようとする「天号作戦計画」が策定されます、天号作戦は航空決戦作戦であり沖縄本島の航空基地確保が必要不可欠の要件となって来ますが日本の航空戦力に航空決戦を遂行しうる力量はないとする第三二軍は地上戦重視の持久作戦の方針を変更しようとしませんでした。

このように、朝令暮改の大本営や上級司令部に対する不信感を抱いていた第三二軍と航空決戦による本島基地確保を要求した連合艦隊および陸海軍航空部隊は作戦目的を異にしたまま、このような状況下で米軍の進攻を迎えることになります。