1914(大正3)年に日本で最初の私立高等商業学校として設立された高千穂高等商業学校の開設時から渋沢栄一は関与していましたが渋沢の紹介などもあって学校の評議員は当時の財界人が名を連ねていました。
今回は日本最初の私立高等商業学校について
島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」から前回4月22日の続きで引用・紹介いたします。

以下、
島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より

渋沢は学校開設時から1909年まで「資金保管主任を務め、1907年から評議員にも就任している(『伝記資料』第二七巻)。
そして学校の玄関には渋沢の揮毫した「士魂商才」の額が掲げられていた。

そして「高千穂学校の卒業式三月二十日記念会五月二十七日にも必ず出席下され、その都度有益な御講演をしていただいています」と記され、渋沢も熱心に後援していたことが見て取れる。
学校行事の式辞において「高千穂学校は、校長が熱心なので、職員一同も甚だ親切な態度を取り、方針においては、世界の進歩に後れぬようにと心掛け、師弟の関係においては、古に模せられるので、実に理想的な学校である」とその教育内容を高く評価していた(同前)。

渋沢の紹介により森村市左衛門や次男の森村開作も財政的な後援者となり、1912年の学校の財団法人化にあたっては森村開作が寄付をする形で、現在にまで引き継がれる大宮八幡神社所有の1万7000坪あまりの校地に学校の基礎が整えられている。

他にも学校の評議員として渋沢の娘婿・阪谷芳郎をはじめとして、早川千吉郎(三井同族会理事、満鉄社長)、村井吉兵衛(村井銀行頭取)、団琢磨(三井合名理事長)、大橋新太郎(博文館)、服部金太郎(服部時計店、精工舎)、郷誠之助、中島久万吉、朝吹英二といったそうそうたる財界人が名を連ねていた。

日本で最初の私立高等商業学校となった高千穂高等商業学校(予科1年、本科3年制)であるが、川田が欧米を視察し、短期間に発展したドイツの原動力が実業教育制度にあったと考えて選択したもので「戦前の高千穂学園の中心をなす学校」に成長していった。

在籍生徒数13人でスタートしたが1920年頃には全体で200人を超えるようになり、戦前には300人近くまで増大した。
第1回から第10回までの卒業生延べ440名中、上級学校進学者3名、会社134名、銀行143名就職、自営業66名などとなっており、十分目的にかなった進路を実現していたと言えよう。


上記は
島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。

商業に従事すのに学問はいらないという風潮が残っていた当時、高千穂高等商業学校が設立されたのは1914年で大正3年という時代背景からして、商工業界における人材の供給というものがあったことは評議員に財界人の名が見られるところからもうかがえますが、卒業生の進路を見ても
成長する商工業とそれらの実務を担うビジネス人材が求められていたことが分かります。