昭和19年1月、大本営はインパール作戦の発動を許可することになった経緯については前回4月21日を見ていただくことにして今回は、その作戦実施前の準備と状況について「失敗の本質」を見ていきます。

インパール作戦発動を許可する大本営の意向を知らされた東条首相兼陸相は作戦実施中における問題点について質したものの作戦決行を決めた大本営は問題なしと回答していますが、作戦を詳細に検討したものではなく前回にも触れましたが軍組織内融和優先の人情論から出された結論ありきというものでした。

インパール作戦(ウ号作戦)計画は急襲突進により、敵の指揮混乱と士気の沮喪を生ぜせしめ、それに乗じて一気に勝敗を決しようとするものであり、不測の事態に備えた計画(コンティンジェンシー・プラン)が検討・用意されている必要がありました。

しかし、牟田口廉也第十五軍司令官は作戦計画の作戦不成功の場合を考えるのは、作戦の成功について疑念を持つことと同じであり必勝の信念と矛盾るものとして不測の事態を検討する必要を認めていませんでした
また、作戦期間を3週間と予定し必ず3週間で作戦が終了するということとアッサム進攻に固執していました。

こうした楽観的な見方に対して方面軍参謀長は作戦不成功の場合をも考慮した作戦構想を用意しますが河辺方面軍司令官は「そこまで決めつけては牟田口の立つ瀬はあるまい。また大軍の統帥としてもあまり格好がよくない」として、その命令を押えてしまいます。
またもや「体面」や「人情」というものが優先されています。

インパール作戦計画は、不測の事態に備えた計画(
コンティンジェンシー・プラン)の欠如という面で作戦の柔軟性と堅実性を欠いていましたが、日本軍の動きを英軍は斥候や空中偵察で事前に察知していたことなどから、その成果が見込めないものであり、また当初から補給を軽視していました。

問題は参加部隊が後方補給に頼らず、どのようにして自力で3週間の突進を続けるか、で、補給不足打開策として牛・山羊・羊・水牛を利用する方法が考えられました。
次回はこの補給の実態と作戦行動をみていきます。