月曜日は“昭和の戦争”をテーマとして取り上げています。

日本が陥った戦争という選択の過ちを振り返ることで現代に得るものがあるのでは、ということからテーマとして毎週月曜日に更新していますが前回4月13日は戦争末期に海外出先機関によって行われた主な終戦工作を取り上げましたが今回は話をソ連がドイツ降伏3カ月後に対日参戦することを決めたヤルタ会談後の日本の動き
半藤一利氏の「昭和史1926―1945」の続きで前回3月30日で引用・紹介いたします。

以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より

そんなこととは日本はつゆ知りませんから、大丈夫、ソビエトはこのまま中立を守ってくれるだろうと当てにして、敵は正面に立ち塞(ふさ)がるアメリカであり、これをどう撃ち破るかというので2月22日、24日、25日の3日間にわたり、陸軍省と参謀本部の首脳が合同会議を開きます。

次はいよいよ本土決戦である、いかに戦い、勝ちをおさめるかと議論して、「本土決戦完遂基本要綱」を決定します。

これによると、本土防衛の兵備を3月末までに31個師団、7月末までに43個師団、八月末までに59個師団に拡大動員する。
このほか国民義勇軍の編成も計画、とむちゃくちゃに兵隊さんを集めるんですね。
そしていざ、敵が本土上陸の時には、人海戦術で海に追い落とすという作戦要綱です。

さすがにこれは、決めたものの、心ある人が読めばとてもじゃない、絵に描いた餅(もち)です。
大本営機密日誌にも「実に12、3歳の少女に子供を産めというに等しい」と書かれているほどですから、会議の席上、陸軍大臣と参謀総長を中心に大激論が交わされました。

陸軍次官の柴山兼四郎中将が、参謀本部の要求はとても無理なので、「いったい兵隊の数が多ければよいのか。
集めたって、鉄砲が足りないではないか。むしろ少数でも充実した部隊をつくったほうがいいのではないか」と疑義を呈(てい)します。

すると作戦部長の宮崎周一中将は、顔を真っ赤にして「質よりもこの場合は数だ!数を第一とする」と怒鳴ったそうです。
そして参謀次長の秦(はた)彦三郎中将もこれを応援します。

「本土決戦というのは、あらゆる手段を講じてでも、第一波を撃砕(げきさい)するにある。
もしこれに失敗したら、その後の計画は不可能になる。後のことは考えない。
とにかく全軍を投入して人海戦術で敵第一陣を完全に撃滅(げきめつ)することだけが大事なのである」

こうして「12、3歳の少女に子供を産めというに等しい」ような大動員をかけることになり、日本全国に赤紙がばら撒(ま)かれ、村にはほとんど年寄りと女と子どもだけという状態になってゆきます。


上記は
半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。

当時の日本がソ連を仲介役とした和平工作に期待していたのは日ソ中立条約によるものと思いますが1943年の
テヘラン会談で米英ソの三国首脳がドイツ降伏について話し合われておりヤルタ会談へとつながるものでした。

また、本土決戦について、人海戦術で後のことは考えない、と言うのは一億玉砕戦法そのもので勝算を見込み難いことは参謀本部も認識していたのではないでしょうか。