電力の鬼と言われた松永安左エ門は1971(昭和46)年に97歳で亡くなりますが1953(昭和28)年、78歳の時に電力中央研究所の理事長を務め、1956(昭和31)に産業計画会議という戦後日本の再建を目的に主催した私設シンクタンクを通じても活動しています。

今回は松永安左エ門という人間が自ら取り組んだテーマに生きる姿というものを
小島直記氏の「伝記に学ぶ人間学」3月21日の続きで見ていきます。

以下
小島直記氏の「伝記に学ぶ人間学」より

そして、そのテーマの中には、トインビーを訪問するとか、年譜にその一部を列記したような事業がありました。
産業計画会議をつくって、委員長になってうんぬんということもありますが、この中でちょっと皆様のご注意を引きたいのは、国鉄に対して非常に建設的な意見を出したということです。

年譜にあるように、国鉄は根本的に整備せよというのが、昭和33年です。
それから、国鉄は公社になれとありますが、これが43年で、犬に引かれてぶっ倒れたときでした。
国鉄は日本輸送公社に脱皮せよと言っていますが、これだけの意見を33年と43年に出しているわけです。
43年は死ぬ3年前ですから、九十いくつです。

いつも目は冴え渡っていました。
私は先ほど申し上げたように、伝記を書いて、いろいろな関係者に会いましたが、最後まで決してご隠居ではありません。
私は『まかり通る』を書くまでは誤解していました。

九十にもなったじじいが、電力界のボスであるというのは、普通はありえません。

アメリカ映画を見ますと、ドンと言われる連中は、風光明媚なフロリダの別荘あたりで、金髪美女か何かをそばに置いて、プールでゆううと泳いで、上がってくると、「おい、電話を持ってこい」と言って、電話をかけて、シカゴの代貸のなにがしを呼び出して、「てめえのところのヤクの売上げは少ねえじゃないか。てめえの命はねえぞ」と脅すでしょう。

そういうリモート・コントロールだろうと思っていました。
小田原におられる九十過ぎのじいさんですから、それが松永さんの現役の姿であろうと錯覚していました。
ところが、側近の人に聞くと、そうではありません。実際に来るんです。

そして、最も創造的な、最もクリエイティブな意見を言ったというのです。驚嘆に値することです。
全然ボケていないどころか、普通の男盛りの連中が一生懸命研究していることの先を読んでいる。
すごい人ですね。そういう人だったそうです。

そういう人ですから、お茶の会に商売に役に立つヤツだけを呼ぼうなんていうことは、初めから考えの中に入っていないわけです。
テーマからくる生き方ですから、実業家として成功しようとか、金を儲けようとか、勲章をもらおうという生き方ではありません。
ですから、算盤茶になる必然性がありません。


上記は
小島直記氏の「伝記に学ぶ人間学」より引用いたしました。

松永安左エ門が国鉄について言及したのは産業計画会議の勧告としてですが、産業計画会議の結成時の言葉から彼の追い求めたテーマがうかがえるように思います。

日本の産業はいかなる姿のものにならなければならないのか、その理想的形態に到達するにはいかなる国民的努力が結集されなければならないか
‥」というもので、国づくり・人づくりという彼がテーマとしたことが、この言葉の中に反映されていると言えるのではないでしょうか。

1965年(昭和40)年、九十歳の時に大阪の千里丘万博予定地を視察していますが、まさに現役そのものの活動をされていたということが分かります。