渋沢栄一は商業教育に積極的に支援・関与しましたが、東京商法会議所を通じて親交のあった大倉喜八郎が設立した大倉商業学校島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」から見ていきます。

以下、
島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より

京華中学校に少し遅れて開設された大倉商業学校についても見ておこう。
同校は東京における文部省認可第一号の甲種商業学校として1900年に開校した(以下は主に『東京経済大学八十年史』による)。
その当時に東京の中等程度の商業学校としては中央商業と東京商業(夜学)が二つあるのみであり、「東京における中等程度商業学校の嚆矢(こうし)」となった(『伝記資料』第二六巻)。

設立を主導した大倉喜八郎は、当初「貧民教育の学校」の設立案を温めていたが伊藤博文に維持困難と反対され商業学校案へ変更したと言われている。
変更にあたって大倉は、条約改正により外国人の内地雑居となると、外国商人に商業知識・手腕によって席巻される可能性があることを恐れて、数少ない官立商業学校だけでは人材の育成がまかないきれないと考え商業学校の創設を企画したのであった(同前)。

「寄付行為証書及び学則案」の策定メンバーは石黒忠悳、渋沢栄一、渡辺洪基、大倉喜八郎、穂積陳重、小山健三らであった。
渋沢の娘婿の穂積がその中心となって、民法が実施されて財団法人の概念が法制化されたが、法人による学校設立がまだなかったことから、この枠組みの利用が試みられた。

結果として財団法人の代表としての理事に、陸軍軍医総監や枢密顧問官であった
石黒忠悳が就任し、督長(校長)に東京帝国大学の初代総長を務めた渡辺洪基を招いた。
学校の年間総支出が授業料収入を大幅に上回っており、授業料は他と比べてきわめて低廉であった。
まさに大倉喜八郎の支援によって成り立つ学校であった。


上記は
島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。

大倉喜八郎については、ここでも以前に取り上げていますが鰹節店の丁稚見習いから一代で大倉財閥を築き上げた
明治のベンチャー事業家と言われる人物で、内外商業隆盛の時代背景から外国商人の商業知識に伍していけるだけの人材育成を目指して私財を投ずることを決意して自身の還暦・銀婚祝賀の席上、渋沢栄一も名を連ねた学校設立の趣意書を公表しています。