昨日はブログの更新を休んでしまいましたが先週の月・火曜日も他用で更新していませんでしたので、今日は先週の更新が一回分空いた昭和20年、初頭から春にかけての動きを半藤一利氏「昭和史1926―1945」を前回3月9日の続きで見ていきます。
以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より
正月を祝う気持ちもなく、人びとは沈黙といいますか、危ないということもありますから、あまりしゃべらなくなります。思えば昭和17年頃は戦争の話で賑やかでした。
18年頃は工場や食い物の話が中心でした。
19年になりますと闇(やみ)の話、また後半は空襲の話が盛んに交わされ、昭和20年になると、もうほとんど誰も何も語ろうとしなくなったのです。
そういう状況の1月8日、天皇は宮城前広場で例年通り観兵式――近衛連隊を前に白馬にまたがり閲兵(えっぺい)する――という新年恒例の行事にのぞみます。
ただ空襲が危なくてしょうがないので、合間をぬってごく短時間で終わります。
その写真が今も残っていて、連隊旗手といって軍旗を捧げもって天皇陛下の前を通っているのは後の評論家、村上兵衛です。
国民が厭戦気分になると同時にこの頃から、上の方でも、なんとかこの戦争をやめなくては、という動きがそろそろ出ていました。
近衛文麿を中心に後の総理大臣・吉田茂、評論家の岩淵辰雄、元「皇道派」のエース小畑敏四朗といった人たちが、和平への模索をはじめます。
これは間もなく憲兵隊に知られて弾圧を受け、吉田茂は逮捕されます。
戦後この逮捕は吉田の「勲章」となりましたが。
また東京大学法学部の先生たち――南原繁(なんばらしげる)、高木八尺(たかぎやさか)、岡義武(おかよしたけ)さんなど、戦後も大いに活躍された方々が、戦争をこのまま続けるのは危険ということで密かに相談し、終戦工作をはじめていました。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。
和平の模索が具体化するのは1945(昭和20)年2月14日に戦争の早期終結を上奏する近衛上奏文によるもので吉田茂が近衛文麿に協力して進めたものですが憲兵隊の察知するところとなり吉田茂は逮捕・投獄され、このことが戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の信用を得ることになります、それはともかく終戦工作は近衛文麿を中心として動き出しました。
以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より
正月を祝う気持ちもなく、人びとは沈黙といいますか、危ないということもありますから、あまりしゃべらなくなります。思えば昭和17年頃は戦争の話で賑やかでした。
18年頃は工場や食い物の話が中心でした。
19年になりますと闇(やみ)の話、また後半は空襲の話が盛んに交わされ、昭和20年になると、もうほとんど誰も何も語ろうとしなくなったのです。
そういう状況の1月8日、天皇は宮城前広場で例年通り観兵式――近衛連隊を前に白馬にまたがり閲兵(えっぺい)する――という新年恒例の行事にのぞみます。
ただ空襲が危なくてしょうがないので、合間をぬってごく短時間で終わります。
その写真が今も残っていて、連隊旗手といって軍旗を捧げもって天皇陛下の前を通っているのは後の評論家、村上兵衛です。
国民が厭戦気分になると同時にこの頃から、上の方でも、なんとかこの戦争をやめなくては、という動きがそろそろ出ていました。
近衛文麿を中心に後の総理大臣・吉田茂、評論家の岩淵辰雄、元「皇道派」のエース小畑敏四朗といった人たちが、和平への模索をはじめます。
これは間もなく憲兵隊に知られて弾圧を受け、吉田茂は逮捕されます。
戦後この逮捕は吉田の「勲章」となりましたが。
また東京大学法学部の先生たち――南原繁(なんばらしげる)、高木八尺(たかぎやさか)、岡義武(おかよしたけ)さんなど、戦後も大いに活躍された方々が、戦争をこのまま続けるのは危険ということで密かに相談し、終戦工作をはじめていました。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。
和平の模索が具体化するのは1945(昭和20)年2月14日に戦争の早期終結を上奏する近衛上奏文によるもので吉田茂が近衛文麿に協力して進めたものですが憲兵隊の察知するところとなり吉田茂は逮捕・投獄され、このことが戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の信用を得ることになります、それはともかく終戦工作は近衛文麿を中心として動き出しました。