1944(昭和19)年3月8日に始まったインパール作戦は同年7月3日に作戦中止となりましたが、この作戦を指揮した牟田口廉也軍司令官についてWikipediaより見ていくことにいたします。
以下、Wikipediaより
牟田口は1943(昭和18年)3月に第15軍司令官に就任し、1944年(昭和19年)3月から開始されたインパール作戦では、ジャングルと2,000m級の山々が連なる山岳地帯での作戦を立案した。
この作戦に対しては当初、上部軍である南方軍司令官や第15軍の参謀、隷下師団のほぼ全員が、補給が不可能という理由から反対した。
しかしながら戦局の打開を期待する軍上層部の意向に後押しされる形で、最終的にはこの作戦の実施は決定されることとなった。
この作戦中、牟田口が要望した自動車等の補給力増強がままならないため、牟田口は現地で牛を調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を発案した。
しかしもともとビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草の用意もおぼつかず、また日本の牛とも扱い方が異なったため、牛はつぎつぎと放棄され、「ジンギスカン作戦」は失敗した。
また、当初の危惧通りインパール作戦が頓挫した後も強行・継続し、反対する前線の師団長を途中で次々に更迭した。
このとき、戦況の悪化、補給の途絶にともなって第31師団長佐藤幸徳中将が命令を無視して無断撤退するという事件を引き起こした。
牟田口は戦後、東京都調布市で余生を過ごした。
しばらくの間はインパール作戦に対する反省の弁を述べ、1960年(昭和35年)頃まで、敗戦の責任を強く感じて公式の席を遠慮し続けながら生活していた。
しかし、1962年(昭和37年)にバーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した書簡を受け取ったことを契機に、自己弁護活動を行うようになり、死去までの約4年間はインパール作戦失敗の責任を問われると戦時中と同様、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張していた。
・イギリス軍のアーサー・パーカー中佐は、昭和37年7月25日に牟田口へと渡された書簡で、意表をついた作戦と評価し、また、師団長の後退がなければ、最重要援蒋ルートであるレド公路への要衝でもあり、インパールへの補給・増援の起点でもある要衝ディマプールは落ちていたかもしれないと牟田口を高く評価した。
もっとも、たとえディマプールを占領できたとしても、維持できたかどうかは別問題である。このパーカー書簡を読んで以後、牟田口は戦後それまでの謝罪活動を止め、上述のように自己弁護につとめた。
上記はWikipediaより引用いたしました。
1966(昭和41)年8月2日に牟田口廉也は亡くなりますが8月4日に行われた自らの葬儀でも自説を記したパンフレットを参列者に配布しましたが、抗命事件を起こした佐藤幸徳第31師団長は軍法会議で軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりで死刑を覚悟していましたが南方軍は軍中枢まで責任が及ぶことを懸念して結局不起訴になりました。
この抗命により多くの兵士の命が救われ当時の兵士らによって石碑が建立されその碑文には次のように刻まれています。
つわものの生命救いし決断に 君は問われし抗命の責め
インパール作戦のインド国コヒマ攻略戦において将軍の撤退決断により生かされた我らここに感謝の誠を捧げる
昭和六十年九月十六日 第三十一師団生存将兵有志建之
インパール作戦とは何だったのか、ということが窺えるのではないでしょうか。
以下、Wikipediaより
牟田口は1943(昭和18年)3月に第15軍司令官に就任し、1944年(昭和19年)3月から開始されたインパール作戦では、ジャングルと2,000m級の山々が連なる山岳地帯での作戦を立案した。
この作戦に対しては当初、上部軍である南方軍司令官や第15軍の参謀、隷下師団のほぼ全員が、補給が不可能という理由から反対した。
しかしながら戦局の打開を期待する軍上層部の意向に後押しされる形で、最終的にはこの作戦の実施は決定されることとなった。
この作戦中、牟田口が要望した自動車等の補給力増強がままならないため、牟田口は現地で牛を調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を発案した。
しかしもともとビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草の用意もおぼつかず、また日本の牛とも扱い方が異なったため、牛はつぎつぎと放棄され、「ジンギスカン作戦」は失敗した。
また、当初の危惧通りインパール作戦が頓挫した後も強行・継続し、反対する前線の師団長を途中で次々に更迭した。
このとき、戦況の悪化、補給の途絶にともなって第31師団長佐藤幸徳中将が命令を無視して無断撤退するという事件を引き起こした。
牟田口は戦後、東京都調布市で余生を過ごした。
しばらくの間はインパール作戦に対する反省の弁を述べ、1960年(昭和35年)頃まで、敗戦の責任を強く感じて公式の席を遠慮し続けながら生活していた。
しかし、1962年(昭和37年)にバーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した書簡を受け取ったことを契機に、自己弁護活動を行うようになり、死去までの約4年間はインパール作戦失敗の責任を問われると戦時中と同様、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張していた。
・イギリス軍のアーサー・パーカー中佐は、昭和37年7月25日に牟田口へと渡された書簡で、意表をついた作戦と評価し、また、師団長の後退がなければ、最重要援蒋ルートであるレド公路への要衝でもあり、インパールへの補給・増援の起点でもある要衝ディマプールは落ちていたかもしれないと牟田口を高く評価した。
もっとも、たとえディマプールを占領できたとしても、維持できたかどうかは別問題である。このパーカー書簡を読んで以後、牟田口は戦後それまでの謝罪活動を止め、上述のように自己弁護につとめた。
上記はWikipediaより引用いたしました。
1966(昭和41)年8月2日に牟田口廉也は亡くなりますが8月4日に行われた自らの葬儀でも自説を記したパンフレットを参列者に配布しましたが、抗命事件を起こした佐藤幸徳第31師団長は軍法会議で軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりで死刑を覚悟していましたが南方軍は軍中枢まで責任が及ぶことを懸念して結局不起訴になりました。
この抗命により多くの兵士の命が救われ当時の兵士らによって石碑が建立されその碑文には次のように刻まれています。
つわものの生命救いし決断に 君は問われし抗命の責め
インパール作戦のインド国コヒマ攻略戦において将軍の撤退決断により生かされた我らここに感謝の誠を捧げる
昭和六十年九月十六日 第三十一師団生存将兵有志建之
インパール作戦とは何だったのか、ということが窺えるのではないでしょうか。