以下、Wikipediaより
補給困難を理由にインパール北方のコヒマへの投入兵力を限定して柔軟にインパール攻略を中止・防衛線構築に移行という修正案を提示した。
しかし河辺司令官は、アッサム侵攻という考えには反対するが、「わたしは牟田口中将の心事をよく呑み込んでいる。最後の断は必要に応じわたし自身が下すからそれまでは方面軍の統帥を乱さない限り、牟田口中将の積極的意欲を十分尊重するように」と述べただけで、うやむやとなった。
略
しかし牟田口司令官は当初のアッサム侵攻構想を含む作戦準備に邁進し、8月末には隷下の各兵団長を司令部に呼び、作戦準備を命じた。
このとき牟田口司令官は、「もともと本作戦は普通一般の考え方では、初めから成立しない作戦である。糧は敵によることが本旨である。」「敵と遭遇すれば銃口を空に向けて3発撃て。そうすれば敵はすぐに投降する約束ができているのだ。」と発言し、列席の兵団長は司令官の本心を疑ったという。
本作戦案は、1944年(昭和19年)1月に大本営により、その実施が南方総軍司令官に発令(大陸指令第1776号)されたが、その背景には、日に日に敗色が濃くなっていく戦局を一気に打開したいという寺内寿一南方軍総司令官の思惑が強く働いていた。
この上層部の思惑を前に、インパール作戦の危険性を指摘する声は次第にかき消されていった。
第15軍内部で作戦に反対していた小畑参謀長が1943年(昭和18年)5月に更迭されたのに続いて、ビルマ方面軍の上級司令部である南方総軍でインパール作戦実施に強硬に反対していた稲田総参謀副長が、同年10月15日に突然更迭された。
こうして作戦に反対する者が排除される様を目の当たりにする中で、反対者は次第に口を閉ざしていくことになった。
略
「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。
インパ-ルを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。
第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。
第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。
兵は30kg - 60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。
後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」。
このように移動手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとって、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであり、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。
まして雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河は増水して通行を遮断することになる。
上記はWikipediaより引用いたしました。
敵と遭遇すれば銃口を空に向けて3発云々は冗談とも受け取れますが、糧は敵によることが本旨とは最初から補給ということを軽視していたことが分かります、また地理的条件としても司令部と作戦部隊の位置取りや日本アルプスのような山を30~60㌔の重装備で越え途中戦闘を交えながら作戦展開戦場に向かうこと自体に無理があることが分かるのではないでしょうか。
このような無理・無謀な作戦の強行が隷下の師団長解任へとなり作戦は完全な失敗になっていきます、次回はこの辺りの事情などを見ていきます。
今日は以上です。