昭和18(1943)年、日本軍は後退を余儀なくされ新たな進攻作戦として翌昭和19(1944)年にインパール作戦という作戦計画が立てられますが、この辺りの様子を半藤一利氏の「昭和史1926―1945」を前回7月7日の続きで引用・紹介いたします。

以下、
半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より

太平洋方面では日本が、ヨーロッパではドイツが連合軍に押しまくられ、敗退に次ぐ敗退の情勢のもと、ここでがっちりと姿勢を固め、連合軍の勢いを押し留めることが一番大事だったのです。
が、ここにやらなくてもいい作戦が強行され、昭和19年の春には目を蔽(おお)いたくなる大敗北がはじまっていました。インパール作戦です。

昭和18年の末頃から、実はこの作戦が考え出されています。
インパールというのはビルマ(現在にミャンマー)の国境線の向こう、山を越えたところにあるインドの主要都市です。
常識的には「今ごろインドに進攻してどうするのか」という話なのです。

それにビルマ方面軍というのはビルマ防衛が本来の任務です。ところが、なぜそんな攻勢作戦が立てられたか。
実は、不利になりゆく戦勢で不人気になりつつある東条内閣への、全国民の信頼を再燃させるために、という政治的な意図がその裏にありました。
要するに、何かでかいことをやって、功一級の金鵄勲章(きんしくんしょう)をもらおう、というまことに個人的な野望にはじまる作戦であったのです。

この作戦を推進したのが、誰あろう第十五軍司令官・牟田口廉也(むたぐちれんや)中将です。
東条首相の子分ともいわれている人物。
その上にいたのがビルマ方面軍司令官の河辺正三(かわべまさかず)大将です。
ご記憶ですか、二人は盧溝橋事件(ろこうきょう)の時の旅団長と連隊長でした。
まさにビルマでも同じコンビがこの大作戦に当たったわけです。

その頃すでに偉くなっていた牟田口さんは、前にも申しましたが、非常に功名心の強い突撃型の軍人で、誰がつくったのかわかりませんが、こんな冷(ひ)やかしの歌が流行(はや)りました。
「牟田口閣下のお好きなものは、一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女のこと)、三に新聞ジャーナリスト」
どうしようもないですね。

こういう方が指揮をとって、インドを一挙に攻略してしまおうというわけです。
「閣下と本職はこの戦争の根因(こんいん)となったし支那事変を起こした責任があります。
この作戦を成功させて、国家に対して申し訳がたつようにせねばなりません」と牟田口は河辺に言ったといいます。


上記は
半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。

インパール作戦は悪化する戦局の打開策としては、必要なものであったかは分かりませんが東条内閣の政治的な判断があったようで後に見ていきますがインド独立の支援という意図があり、それによる政権浮揚という思惑があったようです。

今日は以上です。