渋沢栄一にとって同郷の親戚筋にあたる尾高惇忠や渋沢喜作を同族上の同志と位置づけていましたが、事業経営者というタイプではなかったことなどから新しい同族の必要性が求められるようになり新しい渋沢家の創出ということから島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」を1月22日の続きで紹介・引用いたします。
以下、島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より
尾高や渋沢喜作らは、渋沢から銀行業やさまざまな近代的な製造業の立ち上げにあたって、その一翼を担うことが期待された同郷の士であったが、その期待に十分にこたえることができなかったと言えよう。
尾高や喜作はそれぞれにビジネス面での失敗などもあり、帰郷したり、引退したりとそのつながりは次第になくなっていった。
それ以外の同郷の親戚筋として、維新の荒波を潜り抜けた同志として頼りにもし、引き上げもした近しい者たちもいた。
秘書的な役割を担った尾高次郎や芝崎確次郎をはじめとして、ビジネス上の周辺経営者となっていた大川平三郎や石井(桃井)健吾のように、一部に地縁・血縁者を配置することも見られた。
しかしその起用の仕方は、まさに渋沢の家やその周辺を固めるサポート役としてであった。
このような同族との関わりの変化の中で、渋沢にとっての同族は東京に居住してからの自らの子どもらとのつながりとなっていった。
子どもらが結婚し、それぞれに一家を構える年齢になると、新しく組織的・制度的に同族を捉え、家法を制定して、それに基づいて同族を運営するようになった。
その考え方は少しユニークであった。
娘は次代を担うエリートに嫁がせたが、それは同時に渋沢が不得意な分野で助言してもらい、その経済・社会活動の一翼を担う入り婿になってもらうことでもあった。
長女・歌子が嫁いだのが穂積陳重であった。
穂積は1855(安政二)年、伊予宇和島の上層藩士の家に生まれ、藩校明倫校で国学、漢学を身に付けた。
維新後、藩から選抜された貢進生となり、大学南校に入学、法学部に学んだ。
1876(明治九)年、文部省の第二回の留学生としてイギリス、ドイツで約5年間学んで、1881年に帰国し、東京大学法学部に講師として入り、翌年には27歳で教授、法学部長となった。
歌子(1863年生まれ)との結婚については、宇和島藩の伊達宗城の家令をしていて第一国立銀行の取締役となった西園寺公成が仲介したようである。
渋沢が穂積を長女の婿に選んだのは郷里の人間関係を離れて「新しい一家の創設」をしようとしたもので、宇和島出身者を代表する伊達や西園寺からはぜひとも実現したかった縁談でもあった(穂積重行『明治一法学者の出発』)。
渋沢による穂積の追悼文に「歌子は長女でもある関係上、私の家庭の相談相手になるようにと考え、……一族同様になる結婚をさせて、相援けあいたいものであると思うていた」とあり、自らの相談役を期待したものであったことがわかる(『竜門雑誌』第四五二号)。
上記は島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。
同郷の親戚関係とは別の血縁者ということで長女歌子の婿に伊予宇和島藩の元藩主であり渋沢が大蔵省に出仕した時の大蔵卿であった伊達宗城やその家令であり第一国立銀行の取締役でもあった西園寺公成の仲介による穂積陳重との結婚は新しい渋沢家に相応しい縁組みでした。
今日は以上です。
以下、島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より
尾高や渋沢喜作らは、渋沢から銀行業やさまざまな近代的な製造業の立ち上げにあたって、その一翼を担うことが期待された同郷の士であったが、その期待に十分にこたえることができなかったと言えよう。
尾高や喜作はそれぞれにビジネス面での失敗などもあり、帰郷したり、引退したりとそのつながりは次第になくなっていった。
それ以外の同郷の親戚筋として、維新の荒波を潜り抜けた同志として頼りにもし、引き上げもした近しい者たちもいた。
秘書的な役割を担った尾高次郎や芝崎確次郎をはじめとして、ビジネス上の周辺経営者となっていた大川平三郎や石井(桃井)健吾のように、一部に地縁・血縁者を配置することも見られた。
しかしその起用の仕方は、まさに渋沢の家やその周辺を固めるサポート役としてであった。
このような同族との関わりの変化の中で、渋沢にとっての同族は東京に居住してからの自らの子どもらとのつながりとなっていった。
子どもらが結婚し、それぞれに一家を構える年齢になると、新しく組織的・制度的に同族を捉え、家法を制定して、それに基づいて同族を運営するようになった。
その考え方は少しユニークであった。
娘は次代を担うエリートに嫁がせたが、それは同時に渋沢が不得意な分野で助言してもらい、その経済・社会活動の一翼を担う入り婿になってもらうことでもあった。
長女・歌子が嫁いだのが穂積陳重であった。
穂積は1855(安政二)年、伊予宇和島の上層藩士の家に生まれ、藩校明倫校で国学、漢学を身に付けた。
維新後、藩から選抜された貢進生となり、大学南校に入学、法学部に学んだ。
1876(明治九)年、文部省の第二回の留学生としてイギリス、ドイツで約5年間学んで、1881年に帰国し、東京大学法学部に講師として入り、翌年には27歳で教授、法学部長となった。
歌子(1863年生まれ)との結婚については、宇和島藩の伊達宗城の家令をしていて第一国立銀行の取締役となった西園寺公成が仲介したようである。
渋沢が穂積を長女の婿に選んだのは郷里の人間関係を離れて「新しい一家の創設」をしようとしたもので、宇和島出身者を代表する伊達や西園寺からはぜひとも実現したかった縁談でもあった(穂積重行『明治一法学者の出発』)。
渋沢による穂積の追悼文に「歌子は長女でもある関係上、私の家庭の相談相手になるようにと考え、……一族同様になる結婚をさせて、相援けあいたいものであると思うていた」とあり、自らの相談役を期待したものであったことがわかる(『竜門雑誌』第四五二号)。
上記は島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。
同郷の親戚関係とは別の血縁者ということで長女歌子の婿に伊予宇和島藩の元藩主であり渋沢が大蔵省に出仕した時の大蔵卿であった伊達宗城やその家令であり第一国立銀行の取締役でもあった西園寺公成の仲介による穂積陳重との結婚は新しい渋沢家に相応しい縁組みでした。
今日は以上です。