今回は“失敗の本質”というテーマに対しノモンハン事件から日本政府及び旧日本軍の組織的な欠陥が明らかになった情報に対する判断についてビジネス誌に掲載された「失敗の本質」共同執筆者の一人で戦史研究家、杉之尾宜生(孝生)氏の情報敗戦 本当に欧州ノ天地ハ複雑怪奇だったのかを取り上げ紹介・引用いたします。

以下、ハーバード・ビジネスレビュー January 2011(情報敗戦 本当に「欧州ノ天地ハ複雑怪奇」だったのか・杉之尾宜生)より

昭和14年(1939)5月、満州国と外蒙古(現モンゴル)の国境線をめぐって発生したノモンハン事件は、日本軍の組織特性や欠陥が浮き彫りとなった「失敗の序曲」とでも言うべき武力衝突だった。

戦後、さまざまな視点から研究されてきたこの事件の真相は、ソ連軍の損害がクレムリンの奥深く封印されていたが、ソ連崩壊後、機密文書が公開されたことで、戦略、作戦・戦闘に関する事実認識は変更を迫られた。
日本軍は事件前夜、せっかく入手した貴重な生情報(インフォメーション)を情報(インテリジェンス)に転換する情報業務の基本を踏まず、この事件を単なる国境紛争と位置づけてしまった。

時の首相、平沼騏一郎が独ソ不可侵条約締結を「欧州ノ天地ハ複雑怪奇」と言って総辞職したのも、トップに的確な情報が届けられなかったからである。
ノモンハン事件は、まさしく「情報敗戦」であった。
日本軍の戦略・戦術を組織論的視点から論じた『失敗の本質』の著者の一人がノモンハン事件を再検証する。

2009年8月26日、ロシア大統領、ドミートリー・アナトーリエヴィッチ・メドベージェフは、モンゴルの首都ウランバートルで行なわれた「ノモンハン事件(ロシア側の呼称はハルハ河戦闘)勝利70周年記念行事」に参加した。
モンゴルのツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領と共に、事件当時のソ連・外蒙古(現モンゴル)連合軍司令官であったゲオルギー・ジューコフ将軍の記念碑に献花し、この戦闘に参加したソ連・外蒙古両軍の将兵たちに勲章を贈った。

メドベージェフは記念行事の演説で、ハルハ河の戦闘でソ連・外蒙古連合軍は「日本の関東軍に壊滅的な打撃を与え勝利した。この勝利が第二次世界大戦全体の帰趨に大きな影響を及ぼした。
‥‥‥このハルハ河の戦闘における勝利の意味を変更するような歴史の捏造は容認しない」と強調した。

2009年は独ソ不可侵条約締結(1939年8月23日)70周年にも当たる。
ヨーロッパでは、この条約がドイツのポーランド侵攻を可能にしたことから第二次世界大戦勃発へのソ連の戦争責任を問う世論が高まっていた。

欧州議会は8月23日を「ナチズムとスターリニズムの犠牲者を追悼する記念日」に指定することを提起し、メドベージェフはこれに反発、呼応するかのように、先にウランバートルでの演説に至ったのである。

事件勃発から70年を経てもなお論議されるノモンハン事件とは何だったのか。
昭和14年(1939)夏、外蒙古と満州国(現中国東北三省と内モンゴル自治区の一部)の国境沿いのハルハ河で、日本・満州国連合軍とソ連・外蒙古連合軍が衝突した。
これがノモンハン事件である。

5月11日、数十名の外蒙古兵がハルハ河を越えて東岸地域に侵入したことに端を発した戦いは5月末に日ソ両軍がハルハ河東岸地域から撤退していったん終息した(第一次ノモンハン事件)。
ところが、ソ連・外蒙古連合軍は6月19日、再びハルハ河東岸に侵入した。
相互に激闘を重ねた末、8月20日にはソ連・外蒙古連合軍が大規模な攻勢作戦を開始し、日本・満州国連合軍は甚大な損害を受けた(第二次ノモンハン事件)。

上記はハーバード・ビジネスレビュー January 2011(情報敗戦 本当に「欧州ノ天地ハ複雑怪奇」だったのか・杉之尾宜生)より引用いたしました。

ノモンハン事件に対する組織としての日本軍の対応が、この後の太平洋戦争においても同じ失敗を繰り返すことになるわけですが、スターリンの思惑を日本は気付いていたのかということで次回はノモンハン事件の概要を見ていきます。

今日は以上です。