昭和16年(1941年)11月26日にアメリカがハルノートを提出し日米交渉妥結の見込みがなくなりますが今回はその経緯を保阪正康氏の 「東條英機と天皇の時代(上)」より紹介・引用いたします。

以下、保阪正康氏の 「東條英機と天皇の時代(上)」より

ハルと国務省のスタッフがまとめた二つの案、すなわち「暫定協定案」と十ヵ条から成る「平和解決要綱」が最終的に成文化されたのは二十二日である。
「暫定協定案」には、両国が平和宣言を発し、太平洋地域で武力行使せず、日本は南部仏印から撤退し、仏印駐留の全兵力を二万五千名に制限するとあり、これを日本側が受けいれれば対日禁輸緩和を認めるとあった。

ハルは、この案を英・蘭・中国・濠州の大使に説明した。事態が進展すれば相談すると約束していたからだ。
しかし蒋介石は、駐米大使からこの報告を受けるや失望の色を濃くした。

日本の「乙案」、アメリカの「暫定協定案」、それは彼のもっとも恐れている日米戦争回避の可能性を示していたからだ。〈断じて潰さなければならぬ〉―彼は外交部長宋子文と駐米大使胡適にたいして、 ハルや国務省首脳、陸海軍有力者を説得するよう命じ、彼自身もチャーチルに「われわれの四年以上の抗戦もついに無益に終わるだろう」「わが軍の士気は崩壊しよう」「わが国をいけにえにして日本に譲歩するのか」と訴えた。

この電報を読んだチャーチルは、蒋介石が同盟から離脱するのではないかと懸念した。
 チャーチルはハルから示された案を受けとったとき、日米戦争勃発になればイギリスだけで対独戦を戦わねばならぬのではないかと不安に思ったのだが、 蒋介石の電報を読んでからは、蒋介石の自棄的な行動が心配になったのだ。

インドをはじめアジアに植民地をもつ英国としては、アジア人のアジアという日本の宣伝を裏づけてしまうのを恐れて、中国をつねに陣営に引きいれておかねばならないと考えていた。
彼はルーズベルトに宛てて、「われわれは明らかにこれ以上の戦争を望んではいない。
われわれは一点だけを心配している。・・・・・・われわれは中国について心配している。
もし中国が崩壊したならば、われわれの共通の危険は非常に大きくなる」と警告した。

このメッセージが、国務省に届いたのは十一月二十六日の早朝だった。ところがこれが、実際にルーズベルトに大きな影響を与えることになったのである。

メッセージが届く三時間まえ、ワシントンでは最高軍事会議が開かれ、日本の最終期限をひとまず延長させるため「暫定協定案」の提案を検討していた。
会議に集う者は、それが事態の本格的解決にならないことも知っていた。
会議は難航したが、ルーズベルトが「日本人は無警告に奇襲をかけることで名高いから、もしかすると十二月一日ごろに攻撃されることもありうる」と発言してから、出席者たちは、この奇襲こそが救いになると気づいた。

戦争反対の声や孤立主義に傾く世論を燃えあがらせるには、第一弾を日本に発射させるべきだというのである。
対独戦に参加するためにも対日戦は必要だという暗黙の諒解がそれに輪をかけ、「暫定協定案」より「平和解決要綱」を示したほうが、日本に第一弾を投じさせることになるかもしれないという誘惑が彼らを虜にした。
しかし最終的な結論をださぬまま、会議は休会となっていた。

この休会の間にルーズベルトはチャーチルの電報を読み、すぐ宋子文と胡適に会って蒋介石の要望を丹念に聞いた。
またハルも陸海軍の責任者に会い、日本からの攻撃に反撃できるかを確かめた。
そのあとルーズベルトとハルは長時間話し合い、この際事態を延ばす途を採らず、日本に第一弾を投じさせる途を選択することにした。

11月26日午後5時、ハルは野村と栗栖を呼び、「平和解決要綱」を手渡した。いわゆる「ハルノート」である。
国務省の応接間にはいるまえ、ハルは陸軍長官スチムソンと海軍長官ノックスに、「まもなく日米間の主役は交代するだろう」と事態が政治から軍事に移ることを予言した。
そして事態はそのとおりに動きはじめたのである。

上記は保阪正康氏の 「東條英機と天皇の時代(上)」より引用いたしました。

日本はアメリカとの交渉ということだけを考えていたのでしょうが蒋介石の政治戦略がチャーチルを動かしルーズベルトに大きな影響を与え日本は外交的に追い込まれた状況が読み取れます。
松岡外相が昭和16年の春モスクワを訪問した折にチャーチルが松岡宛に書簡を託しアメリカとの共同歩調を取ることを示唆していましたが、チャーチルの忠告を無視していたことがハルノートという現実となって表れた言うことではないでしょうか。

また、国際政治という表の舞台裏で行なわれているロビー活動というものの駆け引きとその影響力というものを読み誤ったと言うか気付いていなかったと言えるように思います。

今日は以上です。