昭和十六年(1941)十一月二日、大本営政府連絡会議が開かれ対米英戦争を決意し、これを受けて三回目の御前会議で日米交渉について期限が明記されます、この辺りの事情を半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回9月23日続きで見ていきます。

以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より

こうして十一月五日、皇居一の間でこの年三回目の御前会議が開かれました。
事実上、太平洋戦争の開戦を決定づける会議となります。
東条首相、東郷外相、鈴木貞一企画院総裁、それに賀屋蔵相、陸海軍総長がこもごも説明し、つづいて原嘉道(はらよしみち)枢密院議長が天皇のかわりに質問をし、儀式通りに答えが返ってきます。

ひとことで言うと、どなたの発言をみても、すでに日米交渉の不成立を確信しているようなのです。
外交による打開など、言葉だけであって、実際はあり得ないといった感じが否めないのです。

こうして質疑が終わり、原枢密院議長が結論を出します。
「今を措(お)いて戦機を逸しては、米国の頤使(いし・アゴで使われる)に屈するも已むないことになる。
従って米に対し開戦の決意をするも已むなきものと認む。
初期作戦はよいのであるが、先きになると困難を増すが、何とか見込みありと(軍部が)云うので、之に信頼す」

こういう話は全部、アメリカにツーツーカーカーで読まれているわけです。
野村大使に送られた電報には、なんとか日米交渉を妥結せよ、その期限は十一月いっぱいだぞとあり、その訓電は傍受されていました。

コーデル・ハルは『回想録』に書いています。
「ついに傍受電報に交渉の期限が明記されるにいたった。‥‥‥この訓電の意味するところは明白であった。
日本はすでに戦争機械の車輪を回しはじめているのであり、十一月二十五日までにわれわれが日本の要求に応じない場合には、アメリカとの戦争も敢えて辞さないことを決めているのだ」

そして、日本は最後の日米交渉に、強硬な、たとえば中国派遣の日本軍は二十五年を目途として撤退する、といった「甲案」と、やや引き下がった「乙案」、「仏印から日本軍は撤兵する、その代わり米国は日本に石油を供給する」、つまり日米関係を昭和十六年七月以前の状態に戻すことを骨子とした案をつくり、これでなんとか妥結せよとの指令を野村さんに送りました。

上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。

日本の外交電報が昭和十五年十月頃からアメリカに解読されていることを日本は全く気付かないままで日米交渉の期限について野村大使に送っている段階で既に日本は手の内をアメリカに知られた状態で外交戦略の主導権を握られてしまっています。

今日は以上です。