早稲田大学の前身である東京専門学校設立に大隈重信を助けた実務当局者としての小野梓という人物を取り上げていますが前回8月24日続き士族という身分と小野梓について小島直記氏の「伝記に学ぶ人間学」紹介・引用いたします。

以下、小島直記氏の「伝記に学ぶ人間学」より

ご承知のように、徳川幕府時代は「士農工商」という身分的区別がありましたが、明治維新で、四民平等、「士農工商」の四つの民はみな平等、ということになったはずです。
ところが、明治の藩閥政府の親玉たちは、まず華族令をつくりました。

これはフランスの真似をしたわけです。
フランスのデュックという言葉を公爵と訳し、マルキを侯爵、その次のコントを伯爵、ヴィコントを子爵、バロンを男爵と訳して、フランスの貴族制度をそのままもってきました。

そして、一条家とか、三条家とか、近衛家とかいうものには、公爵という称号を付けました。
その次の位の徳大寺とか、西園寺は、最初は侯爵です。
それから大久保利通が明治十一年に殺され、木戸孝允が明治十年の西南戦争の最中に病気で亡くなりましたが、この二人は西郷隆盛と合わせて、明治の三傑と言われました。

つまり、明治維新というものを実行した最大の功労者であるということから、大久保利通の息子と木戸孝允の息子は、侯爵になりました。

そして、山県有朋とか、井上馨とか、伊藤博文とか、大山巌のような、のちの元勲、維新のときは二流の人物であった連中が、最初は自ら三番目の伯爵になりました。お手盛りです。
伯爵になって、人民を睥睨(へいげい)しました。
伯爵になると、世襲財産ももらえます。

それから、維持費ももらえるということで、特権階級もいいところです。
さらに、子・男をつくりますが、男爵によくやる実業家が入るのはずっとあとですから、明治はあくまでも官尊民卑決して四民平等の社会ではありません。

しかも、華族になれない侍たちがブウブウ言っています。
秩禄処分というのがあって、徳川時代に殿様からもらっていた禄を返して、公債をもらいましたが、やがて二束三文になってしまいます。

それから、国家防衛は武士の特権でした。
軍隊は士族の義務であると同時に権利であったわけです。
それを武士の手から取り上げて、百姓・町人のいわゆる鎮台兵にやらせることにしたから、武士は非常に不平です。

生活の根拠を奪われ、職業上の誇りを奪われ、しかも廃刀令で刀を差すことさえ許されなくなりました。
ブウブウ言っているので、せめてもの慰めに、士族という階級をつくり、その下に平民という階級をつくりました。
ですから、戦前の入学願書などには、必ず士族だの、平民だのと書かされました。

私の母は士族の家から平民の商人の家に嫁に来て、平民と書くのを非常に屈辱だと思っていました。
武士の娘だということを最後まで誇りにしていました。

それくらい士族はプライドがあったのに、子供のときにバカと言われた小野梓先生は十七歳のときに自分から士族の身分を脱して、平民に格下げしてもらいました。

上記は小島直記氏の「伝記に学ぶ人間学」より引用いたしました。

明治維新によって倒幕に動いた薩長を中心とした藩閥政府は自分達にとっての特権ともいうべき華族という制度をつくり旧徳川幕府を支えた武士という身分をなくしたことの不満を抑えるために士族という階級をつくりました。

しかし小野梓という人は土佐藩の下級武士の子どもで士族という身分でありましたが自ら平民に格下げしてもらった理由と考え方について明治維新の目的というものをどのように捉えたか、を次回は見ていきます。

今日は以上です。