渋沢栄一が企業家活動における出資パートナーということで大倉喜八郎や浅野総一郎そして益田孝・克徳兄弟、馬越恭平などについて取り上げてきましたが今回は渋沢が経営上における代理人たちについて、前回6月26日に続いて島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」から紹介・引用いたします。
以下、島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より
もう一つのタイプが、社内の専務取締役や支配人などに就任した渋沢の経営上の代理人とも言うべき役割を担ったメンバーである。
その代表格の一人は植村澄三郎(1862~1941)である。
北海道炭鉱鉄道を皮切りに札幌麦酒、十勝開墾などの各会社を任されていく。
植村が大きく認められるきっかけとなったのが札幌麦酒会社であり、同社は、北海道開拓使の麦酒醸造所の払い下げを受けて1887(明治20)年、渋沢、浅野、大倉らによって発足した。
実際に北海道という現地で指揮を執る責任者を探していた渋沢や大倉の眼に留まったのが北海道炭鉱鉄道の監査役であった植村で、1894年に専務取締役として加わった。
植村は実質的な社長として手腕を存分に発揮し、外国人技術者から自前の日本人技術者への切り換え、東京(本所区吾妻橋、現・墨田区)に分工場建設計画の決定をして1903年から出荷を開始した。
そして1905年には製造量でビール業界のトップにつくというめざましい成果を発揮した。
その後、札幌麦酒は大日本麦酒と合併し、馬越社長・植村常務取締役という体制を24年間続けていくことになっていった。
上記は島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。
植村澄三郎は北海道炭鉱鉄道で渋沢栄一に見出され札幌麦酒の実質的な経営を任されて麦酒醸造所払い下げ事業として大きな損失を出していた事業を立て直します。
当時は、輸入ビールは年々増加し、日本のビール産業も目覚しい発展を遂げていて、植村が着任した2カ月後に始まった日清戦争によって、ビール業界はさらに景気が上昇。
終戦後も勢いに陰りは見えなかったことから、植村は設備投資に積極的に乗り出します。
それと並行して、ビール原料の大麦やホップの道内生産に力を注ぎ、ガラスのビール瓶工場も建設。
販路拡大策として東京に分工場をつくり馬越恭平とのコンビで成果を上げ渋沢の期待に応えました。
渋沢との関わりのある人物ということで後でも取り上げることにしています。
今日は以上です。
以下、島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より
もう一つのタイプが、社内の専務取締役や支配人などに就任した渋沢の経営上の代理人とも言うべき役割を担ったメンバーである。
その代表格の一人は植村澄三郎(1862~1941)である。
北海道炭鉱鉄道を皮切りに札幌麦酒、十勝開墾などの各会社を任されていく。
植村が大きく認められるきっかけとなったのが札幌麦酒会社であり、同社は、北海道開拓使の麦酒醸造所の払い下げを受けて1887(明治20)年、渋沢、浅野、大倉らによって発足した。
実際に北海道という現地で指揮を執る責任者を探していた渋沢や大倉の眼に留まったのが北海道炭鉱鉄道の監査役であった植村で、1894年に専務取締役として加わった。
植村は実質的な社長として手腕を存分に発揮し、外国人技術者から自前の日本人技術者への切り換え、東京(本所区吾妻橋、現・墨田区)に分工場建設計画の決定をして1903年から出荷を開始した。
そして1905年には製造量でビール業界のトップにつくというめざましい成果を発揮した。
その後、札幌麦酒は大日本麦酒と合併し、馬越社長・植村常務取締役という体制を24年間続けていくことになっていった。
上記は島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。
植村澄三郎は北海道炭鉱鉄道で渋沢栄一に見出され札幌麦酒の実質的な経営を任されて麦酒醸造所払い下げ事業として大きな損失を出していた事業を立て直します。
当時は、輸入ビールは年々増加し、日本のビール産業も目覚しい発展を遂げていて、植村が着任した2カ月後に始まった日清戦争によって、ビール業界はさらに景気が上昇。
終戦後も勢いに陰りは見えなかったことから、植村は設備投資に積極的に乗り出します。
それと並行して、ビール原料の大麦やホップの道内生産に力を注ぎ、ガラスのビール瓶工場も建設。
販路拡大策として東京に分工場をつくり馬越恭平とのコンビで成果を上げ渋沢の期待に応えました。
渋沢との関わりのある人物ということで後でも取り上げることにしています。
今日は以上です。