昭和十六年四月一日に野村吉三郎氏が駐米大使としてアメリカに赴任し日米国交打開ということで日米諒解案の第一案ができあがります。
日米諒解案のその後を半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回5月13日続きで見ていきます。

以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より

ルーズベルト大統領と近衛首相が太平洋沿岸のどこかでサミットを行ない、こじれている問題点を解決するという内容で、ワシントンでの交渉では日米双方ともこれに異論なく、さらに討議を重ね、四月十六日には最終案がまとまります。

野村大使はハルに言いました。
この日米諒解案の最終案を本国に通達する、と。
ハル長官もなるべく早く日本政府の正式な意見を承(うけたまわ)りたい、と好意的でした。
そこで野村さんは晴れやかな気分で、四月十七日に最終案を日本へ送り、翌十八日に届きました。

こんなにも早く、と言ってもいいと思いますが、これを受け取った日本政府は狂喜しました。
特に当時、モスクワ旅行中の松岡洋右にかわって外務大臣を兼任していた近衛首相は、結構なことだと大歓迎し、さらに陸軍大臣も海軍大臣も参謀総長も軍令部総長も賛成、細部の問題はともかく、ほとんど全員が諒解案の趣旨に同意したのです。

すぐにでも野村大使に「日本政府は同意」と返事を出そうという意見が大半でした。

さてここで、残念な話になってしまうのです。
近衛さんが本当にリーダーとしての決断ができればよかったのですが、それができない人だった。
さながらどこかの首相のように「丸投げ」がお好きな方でしたから、
「松岡外相がまもなく帰ってくる。したがって、松岡君の意見も聞いたほうがいいのではないか」
とくだらないことを言い出したのです。

そのため、すぐに返事をという強い意見も「トップがそう言うなら」と引き下がりました。
四月十九日、二十日あたりのことです。

そこへ松岡外務大臣が、独伊との三国同盟の締結、さらには日ソ中立条約という、ものすごいお土産(みやげ)を持って、おのれの手柄に酔っ払ったような顔で四月二十二日、立川の飛行場に着陸あそばしました。
これがもう十日も遅けりゃあなんでもなかったんですが、折りも折り、日米諒解案への同意をアメリカに伝えようという直前に帰ってきてしまったんですね。

近衛さんは、松岡の同意をとりつけるつもりでわざわざ立川の飛行場まで迎えに行きましたが、有頂天の松岡は、「そんなこと聞いている暇(ひま)はありません。これから日比谷で行なわれる私の歓迎国民大会に出席しますから、後でうかがいます」
と言うので、近衛さんも仕方なく、移動の車内で丁寧に説明させるよう、大橋忠一外務次官を松岡の車に同乗させました。

大橋から説明を聞いた松岡外相は、
「そんな二人の神父がもってきたような、正常なルートでもない案をどうして信用するのか。愚劣にもほどがある。
これは陸軍の陰謀だ。
わが外務省はこのようなくだらない案に乗ることはできない、だめ!」
と突っぱねたんです。

上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。

確かに、この日米諒解案というのはアメリカ政府による正式な交渉ルートを経たものではありませんでしたが、それだけに近衛首相としては日米首脳会談での交渉進展に期待していたようです。

ただ、アメリカ側は日本の出方を探る意味もあったのかも知れませんが、何れにしても外交交渉というのは何があっても不思議でない世界だけに近衛首相とルーズベルト大統領の会談が実現していれば局面は打開できたかも知れません。

今日は以上です。