人の生き方として今よりも官尊民卑が強かった明治時代の恵まれた官界の身分を捨てるという思い切った決断をした伊庭貞剛という人物を今回は前回の小倉正恒に続いて小島直記氏の「伝記に学ぶ人間学」から前回3月2日続きで紹介・引用いたします。

以下、小島直記氏の「伝記に学ぶ人間学」より

住友に入ると、そのときの総理事が私の大好きな伊庭貞剛さんです。
これは人生の達人です。
肩書で生きていない人です。

明治十年ごろの大阪上等裁判所判事ですが、役人たちは口ではきれいなことを言うけれども、暮夜ひそかに上役の門をたたき、と伝記に書いてあります。
ゴマをすったり、賄賂をやったりということが公然と横行している、そういう官界の腐敗におれは耐え切れないということで、官を辞めて、今日以上に官尊民卑の度合いの激しかった明治時代に、上等席を捨てて、郷里に帰ろうとされました。

ご郷里は琵琶湖のほとりの今日の近江八幡という町です。
郷里に隠栖するために、各方面に挨拶をしなければいけないので、叔父さんのところに行かれました。
その叔父さんが住友の大番頭であった広瀬宰平です。
これは十一歳から住友の別子銅山で働いて、別子を本当に住友家の財産たらしめた大功労者です。

話すと長くなるので、はしょりますが、その叔父さんのところへ行ったら、
「そういう理由で官界を去ることには反対はしない。しかし、まだ三十そこそこで田舎に隠栖するのは早すぎる。
まだ世のため、国のために尽くすべきではないか。
ついては住友はまだ微々たる存在だが‥‥‥」。

住友は今財閥ですが、当時は銅屋さんです。江戸時代から続いた、金属の銅屋さんです。
微々たる存在といってもいいでしょう。
日本一の銅屋ではありますが、少なくともコンツェルンではありません。

「微々たる存在であるが、これから大いに伸びる可能性がある。
これからの経済界は、男が働く場所だ。
お前も住友で働いてみないか」
と言われて、住友に入って、だんだん偉くなって総理事になったという人です。

この人も肩書で生きる人ではありません。
別子銅山のストライキを鎮圧に行くときは、裁判所の判事あがりですから、法律の専門家ですが、その専門家が法律の条文を一つも読みませんでした。
『臨済録』一冊を懐に、死ぬという覚悟で行ったんです。

上記は小島直記氏の「伝記に学ぶ人間学」より引用いたしました。

「意気に感じる」という言葉がありますが、単なる利害得失ということでなく、志を得るための具体的な決断は自分を生かせる居場所を定めるということに尽きるのではないでしょうか。
人の生き方というのはいろいろとありますが、“あるべき姿”から自分の生き方を形成するということが大事な様に思います。

今日は以上です。