明治期の事業支援として会社設立をはじめ小規模の個人ビジネスに対しても、いろんな形で支援した渋沢栄一の具体的な支援事例前回続いて島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」から紹介・引用いたします。

以下、島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より

株式の引受けやさまざまなビジネスへの出資、そして保有株式の売却以外のさまざまな株式や資金の出入りについてはどうなっていたのだろうか。
渋沢は第一銀行から「定期借入」として二万円程度の借入枠をもっていた。
それ以上の借入に関してはきちんと担保を設定し、借入目的を明示している。

第一銀行から借り入れた資金の総額は一二二万六〇〇〇円と大きな金額になっている。
その三分一弱にあたる三五万五〇〇〇円は浅野鉱山部に関するものであった。

事業に必要な資金は設立時や大規模投資の必要な増資だけでなく、急ぎの運転資金の調達や不測の事態の発生による事業計画外の追加投資の必要など株主からの追加出資を仰げない資金需要は当然あった。

一般的に低金利による資金調達が困難だったので、渋沢が直接、資金の貸付をする場合もあった。
金融機関からの借入のための担保としての株式を貸与したり、連帯保証人を引き受けたりといった、さまざまな形態の資金と信用を供与していたのであった。
しかしこれらの資金の供与は実際には回収不能な案件が多かった。

一つの事例を紹介しておく。
小笠原諸島で国産の藍・インディゴを栽培し、それを国内で販売することを目的として一八八八年に設立された製藍会社がある。

江戸時代には阿波をはじめとして渋沢の周辺地域でも広く栽培されていた藍であるが、明治以降輸入藍に押されて国産藍は衰退していた。
それを復活させたいという試みであったが、藍・インディゴの栽培に小笠原の気候風土はあわず、一八九二年八月に解散している(『青淵先生六十年史 一名近世実業発達史』第二巻)。

そのときの渋沢の損失額は二八〇八円であった。
輸入藍に対抗できる藍の国産化事業に失敗した渋沢は、青木直治を通してインド藍の独自輸入を試みた。
一八九五年三月にはインド藍八万五〇〇〇円分を買い付けて輸入販売をおこなった。

さらに同年一〇月には青木商会を設立して本格的に藍の輸入販売事業を開始する(同前)。
渋沢は設立資金として四万円を貸し付け、さらに青木が横浜正金銀行から借りた二万五〇〇〇円の借金の保証人にもなっている。
しかしながら事業はうまくいかず、一八九六年一二月には会社を解散している。
このときの渋沢の損失額についてははっきりした記述がないが、相当の額を渋沢が負担した事は想像に難くない。

渋沢は、株式等への出資に加えて、金融機関や株式市場では調達困難な運転資金や、不測の事態といったさまざまな形の資金と信用をビジネスに供与していた。
まだまだ不安定で不確実だった明治中期のビジネスの立ち上げをかなりの私財を提供する形で支援し、長期的な視点での安定化をはかったのであった。

上記は島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。

明治期の経済活動、ビジネス分野について渋沢栄一は財閥という背景を持たなかったにもかかわらず、多くの企業の設立や事業支援していった中には失敗もあったということですが渋沢自身に企業や事業創造による経済社会像がイメージされていたからこそ私財を提供してのビジネス支援が出来たのではないでしょうか。

渋沢の理念については、この後も見ていきますが渋沢栄一と同時期に活躍した実業家はどんな考えを持っていたのかを次回は取り上げる予定にしています。

今日は以上です。