昨日も書きましたが紹介・引用記事の書き方を工夫する必要性は感じていますが前後のつながりから、今日のテーマ「昭和の戦争」は前回2月18日に続いて半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から日本政府の昭和十六年春先における松岡外相のベルリン訪問を紹介・引用いたします。
以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より
さて、この時点では日本は一気に南方に進出するよりも、まだアメリカとの関係を外交交渉によってなんとか丸く元に戻せないかと、多くの人が考えていたと思います。
そこで間もなく日米交渉がはじまるのですが、その前に、松岡洋右(まつおかようすけ)外務大臣は、三国同盟を結んだのだから、これを基盤にして自分が提唱している「日独伊ソ」四国協定にまで話をもっていくチャンスではないかと考えました。
そして昭和十六年三月から四月にかけて、ヒトラーとスターリンに会うため、自らベルリンとモスクワを訪問することにしました。
その話を先にいたします。
同盟を結んだ直後ですから、ヒトラーは大歓迎してくれるでしょうが、その帰りにモスクワに寄るといっても、スターリンが会ってくれるかどうかは大きな問題でした。
しかし松岡外相はあえてこの思い切った外遊に踏み切ったのです。
私も一九九〇年、東西ドイツが統一された翌々日ぐらいにベルリンを訪問しました。
東ベルリンの飛行場に降りましたら、ロシア語ばかりだった看板を英語のものに取り換えている最中でした。
一週間ほど滞在しまして、ヒトラー・ドイツのもっとも盛んな時の遺跡を見物したり、松岡外相が訪独した時のようすも探ったりしました。
その際の歓迎ぶりは、まことにドイツ挙(あ)げての盛大なものだったようです。
ベルリン駅頭に日の丸と旭日旗、そしてナチス・ドイツの鉤十字旗(かぎじゅうじき)がだーっと張りめぐらされるなか、整列したヒトラー・ユーゲントが「ハイル・ヒトラー!」「ハイルハイル・マツオカ!」の歓声を飛ばす光景を駅前広場に立って想像したのですが、松岡はそれはいい気分だったと思います。
世界一美しいといわれるドイツの軍服姿の将兵整列を閲兵(えっぺい)したあと、銅像が並び立つウンターデンリンデンの大通りをオープンカーで行進して宿舎に入る。
まあ、私はタクシーで通ったんですが、宿舎となった離宮シュロッス・ベレ・ビューも残っていました。
なかなか立派な、高価そうなホテルになっていました。
さて三月二十七と四月四日の二回、松岡は膝(ひざ)を突き合わせてヒトラーと会談します。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。
当時の日本を取り巻く国際情勢についての認識ということもあると思いますが、アメリカとの関係回復を考えるならアメリカについての情勢分析はもちろん、情報が不足している中での松岡外相のベルリン訪問目的は何だったのかがこの段階では分かりませんが次回に松岡とヒトラー会談について見ていきます。
今日は以上です。
以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より
さて、この時点では日本は一気に南方に進出するよりも、まだアメリカとの関係を外交交渉によってなんとか丸く元に戻せないかと、多くの人が考えていたと思います。
そこで間もなく日米交渉がはじまるのですが、その前に、松岡洋右(まつおかようすけ)外務大臣は、三国同盟を結んだのだから、これを基盤にして自分が提唱している「日独伊ソ」四国協定にまで話をもっていくチャンスではないかと考えました。
そして昭和十六年三月から四月にかけて、ヒトラーとスターリンに会うため、自らベルリンとモスクワを訪問することにしました。
その話を先にいたします。
同盟を結んだ直後ですから、ヒトラーは大歓迎してくれるでしょうが、その帰りにモスクワに寄るといっても、スターリンが会ってくれるかどうかは大きな問題でした。
しかし松岡外相はあえてこの思い切った外遊に踏み切ったのです。
私も一九九〇年、東西ドイツが統一された翌々日ぐらいにベルリンを訪問しました。
東ベルリンの飛行場に降りましたら、ロシア語ばかりだった看板を英語のものに取り換えている最中でした。
一週間ほど滞在しまして、ヒトラー・ドイツのもっとも盛んな時の遺跡を見物したり、松岡外相が訪独した時のようすも探ったりしました。
その際の歓迎ぶりは、まことにドイツ挙(あ)げての盛大なものだったようです。
ベルリン駅頭に日の丸と旭日旗、そしてナチス・ドイツの鉤十字旗(かぎじゅうじき)がだーっと張りめぐらされるなか、整列したヒトラー・ユーゲントが「ハイル・ヒトラー!」「ハイルハイル・マツオカ!」の歓声を飛ばす光景を駅前広場に立って想像したのですが、松岡はそれはいい気分だったと思います。
世界一美しいといわれるドイツの軍服姿の将兵整列を閲兵(えっぺい)したあと、銅像が並び立つウンターデンリンデンの大通りをオープンカーで行進して宿舎に入る。
まあ、私はタクシーで通ったんですが、宿舎となった離宮シュロッス・ベレ・ビューも残っていました。
なかなか立派な、高価そうなホテルになっていました。
さて三月二十七と四月四日の二回、松岡は膝(ひざ)を突き合わせてヒトラーと会談します。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。
当時の日本を取り巻く国際情勢についての認識ということもあると思いますが、アメリカとの関係回復を考えるならアメリカについての情勢分析はもちろん、情報が不足している中での松岡外相のベルリン訪問目的は何だったのかがこの段階では分かりませんが次回に松岡とヒトラー会談について見ていきます。
今日は以上です。