日本は対米戦争ということに対して、いつ頃から具体的に動き出したのでしょうか、対米戦ということになれば海軍が主体となるわけですが当時の海軍中央はどのような状態だったのでしょう。
いつものように半藤一利氏の「昭和史1926―1945」からこの当時の様子を紹介・引用いたします。

以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より

昭和十五年十月十五日、岡敬純(おかたかずみ)少将が軍務局長に、富岡定俊(とみおかさだとし)大佐が作戦を担当する軍令部第一課長になります。
さらに十一月十五日、高田利種(たかだとしたね)大佐が軍務第一課長に、石川信吾(いしかわしんご)大佐が軍務第二課長に就任します。

石川は、前に、アメリカと戦争するには超大戦艦をつくるべきだという意見書を出した人で、大和(やまと)が目下建造中でもありました。
口八丁手八丁の政治的な軍人で、非常によく動いて裏工作なども達者、しかも長州出身ですから陸軍の長州閥や、同じく長州出身の松岡洋右(まつおかようすけ)外相とも仲がいい。
海軍には珍しい、どこへ飛んでいくかわからない弾(たま)のようだから「不規弾(ふきだん)」といわれるぐらい、軍の統制にも従わず、自分の思ったことをどんどん進める人でした。

そして十一月十五日、これらの強硬派が推進して海軍は出師(すいし)準備を実施します。
海軍は、戦争がはじまる前に軍艦を戦場に近い場所まで運んでおかなくてはなりません――たとえばこのあと太平洋戦争はハワイの真珠湾軍港に対する奇襲ではじまりますが、それは事前に攻撃可能なハワイ近海まで空母を運んでいたわけです。

さらにその前の段階として、軍艦を整備し、弾薬や食糧を載(の)せたりしておく必要もあります。
それを相当早くからしておかねばならない事情から、及川(おいかわ)海相はいざという時すぐ出動できる準備つまり出師準備の実施を天皇に上奏(じょうそう)して許可を得、天皇の名においてこの日、全軍に対して準備発動を命じたのです。

実際は、翌昭和十六年四月十日をもって、連合艦隊などの外戦(がいせん)部隊が、アメリカの全兵力に対して七割五分の比率の戦備を整えるという目的あってのことでした。
これは日本海軍の当時のほとんど全戦力といってもいいと思います。
この出師準備発令は、日露戦争以来なかったことなのです。
もうある種の戦争決意と言えましょうか。

上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。

今回、引用した中で軍務局というのがありますが軍務局は軍の編成と国防政策に関わることが主な業務になり、この軍の編成と国防政策を対英米強硬派が担うことで強硬路線に向かわざるを得ない状況になっていったものと思われます、しかし大臣が具体的な意向を示すことが出来れば、また違ったものになっていたのではないでしょうか。

米内光政海軍大臣と山本五十六海軍次官のコンビでは日独伊三国同盟に反対し在任中は三国同盟が締結されなかったことから言えば対英米強硬派が軍政に関与し対英米協調派は現場の部隊に転出したことが海軍の大きな転換点になったと思われます。

今日は以上です。