子どもの表情というと「可愛らしい」という表現で語られることが多いものですが、一般的に大人の側から見た子どもということが基本的な捉え方として定着しているようにも思われます。
子どもの心身の不均衡がもたらす、その危さについて宗教学者の山折哲雄氏が日経新聞[日曜版]に連載されている9月30日付けの「危機と日本人」で取り上げられていますので紹介・引用いたします。

以下、9月30日の日経新聞[日曜版]山折哲雄「危機と日本人」(31)より

日本の子どもの表情が暗い、元気がない、そのような言葉を、これまで、どれほどきかされてきたことか。
とりわけ海外にでかけるカメラマンたちの数々の証言のなかに、そのような発言が目立っていたような気がする。
アフリカやアジアの各地飢えている子どもたちの表情がいかに明るく、生き生きしているか、その姿を紹介して、あまりにもかけ離れた両者の対照に注意をむけようとする傾きもないではなかった。

日本国内においても、田舎の子どもの素朴な顔の表情とひきくらべて、都会の子どものけわしい顔つきや無表情について指摘することが珍しくはなかった。
いったいどうしてそんなことになっているのか。
それがわかるようでいて、なかなか腑(ふ)に落ちない。

ずい分以前のことになるが、ルネサンス時代のあれこれの「聖母子像」の絵を眺めていて、はっと気がついたことがあった。
そこに登場してくる「子どものイエス」に、可愛(かわい)らしい表情をしたのもあれば、怖ろし気な表情をしたのもあったからだった。

さしずめラファエロの描いた聖母子像にでてくるイエスの場合は可愛らしいものの典型だろう。
いかにも純潔そのもので愛らしい。
ところがまことに意外なことに、レオナルド・ダ・ヴィンチのイエスは何とも不気味な表情をたたえているではないか。
ときに大きな眼球を剥き、にこりともしないで、前方をじっとみつめている。
みるものの心臓を刺すような鋭い視線を放っている。
ラファエロとレオナルドのイエスは、なぜそのような違いみせて表現されているのか、それが私には不可解だった。

それと話の筋は異なるかもしれないが、ふと、わが国の絵本の世界に登場する子どもたちはどれもだいたいのところラファエロの可愛いタイプだな、と思うようになった。
ところがどうしたわけか、マンガやアニメの世界で大活躍するキャラクターたちはヴァイオレンスとセックスの熱狂のなかで千変万化の表情をみせる。
それがただちにレオナルド型と重なるというわけではないが、どちらかというとそれに近いのではないか。

絵本とマンガ、アニメと並べれば、一方は幼児用、片方は少年少女用と、子どもの発達段階の相違に結びつける見方もあるだろう。
けれども世の親たちや教師たちは絵本的な世界は受け入れるのにたいし、マンガ、アニメの暴力や性のシーンには懐疑的で、いつも警戒を怠らない。
やや短絡的にいってしまうとラファエロ型は受容して、レオナルド・ダ・ヴィンチ型は敬遠してしまう。
それが実状ではないだろうか。

あるとき、ダ・ヴィンチ描くところの「聖母子像」をつくづく眺めていて、ひらめくものがあった。
そこに登場する怖ろし気な「子なるイエス」は、もしかするとからだは子どものまま、しかしこころ(精神)はどんどん成長してしまった子どもではないか、そう疑ったのである。
ただ成長というより、ここではむしろ生物的成長あるいは野生的成長、といいかえた方がよいかもしれない。
からだとこころがアンバランスなままに成長した子どもの危うさを、ダ・ヴィンチはほとんどそれこそ本能的に見抜いていたのかもしれない、と。

谷崎潤一郎の初期の不気味な小説に『少年』というのがあった。
自伝的要素の多い作品ともいわれているが、ここには光子という十三、四歳の女の子が出てくる。
かの女はいつのまにか十歳になった「私」や遊び仲間のガキ大将、仙吉を縄で縛ったり、顔一面にろうそくをたらしたり、その揚げ句、自分のおしっこを飲ませたりして遊ぶ。
ただの悪趣味のお話のようにもみえ、また谷崎流儀のマゾ関係を誇張して描いているようにもみえるが、そこに漂う不気味な雰囲気はやはりただごとではない。
遊び仲間たちが、いつのまにか少女の言いなりになってしまうからである。

谷崎はそこに「いじめ遊び」の匂いをかぎとり、さらにエスカレートさせ、狼(おおかみ)ごっこや泥棒ごっこ、芝居がかった略奪や殺人ごっこまでもちだして、相互陵辱(りょうじょく)の場面をくりひろげていく。
子どもたちの内部に芽吹いてくる性の意識、その変態の快感が浮かび上がってくる。
この『少年』は明治44年(1911年)6月号の『スバル』に発表されているが、その後谷崎はもう一つ『小さな王国』という小説も書いていた。

ある田舎の小学校に一人の転校生がやってくる。
クラスは小学五年、十一、二歳の子どもたちだ。
転校生は色の黒い、巾着頭(きんちゃくあたま)の、憂鬱そうな目つきをした少年であるが、クラスの子どもたちはいつのまにか担任教師のいうことより、この転校生の言いなりになっていくのである。

上記は9月30日の日経新聞[日曜版]山折哲雄「危機と日本人」(31)より引用いたしました。

ここで語られている「名作」を私は見たり読んだりしたことはありませんが、子どもは成長するに伴って大人社会の領域に、好むと好まざるに関わらず足を踏み入れていくものだけに、どのように接していくか、その接し方によって子どもの顔の表情は違ってくるのではないでしょうか。
ある意味で、子どもの表情というのは時代を映していると言えるのかも知れません。

今日は以上です。