昭和15年(1940年)7月22日に第二次近衛内閣が発足しますが国内の親独ムードの中で再び日独伊三国同盟が取り上げられ三国同盟に反対していた海軍の態度が変わっていきます
今回はこの辺りの様子を半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から紹介・引用いたします。

以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より

そこに九月七日、ドイツ本国からリッペントロップ外相の、つまりヒトラーの特使としてシュターマーが来日しました。
日独伊三国同盟を再度協議して、なんとか結ぶためです。

九日、十日に松岡外相と親密な会談をし、互いにドイツのヨーロッパ新秩序、日本のアジア新秩序の勢力圏を確認し承諾する――まあ日本がヨーロッパに手を出すわけはないのですが――、またアメリカがヨーロッパの戦争に参戦しないよう、日本とははっきりと軍事同盟を結ぶ――そうしておけばアメリカはヨーロッパに参戦した場合、アジアでも日本と戦わなければならなくなります――、さらに松岡の夢のような政策である、日独伊ソの四国が同盟ならずとも協商を結ぶ、ということで意見の一致をみたのです。

さあ今こそ日独伊三国同盟を結ぶべき秋(とき)、なぜならそれがアメリカのヨーロッパへの参戦を抑止し、同時に日本との戦争も抑止することになる。
こうして非常に魅力的な案だと俄然、締結ムードが盛り上がるなか、松岡・シュターマー会談の合意を受けて九月十二日、近衛、松岡、東条英機陸軍大臣、及川古志郎海軍大臣の四人が集まって話し合いました。
この時、及川海相だけは、ふにゃふにゃと態度を保留しました。

そして十四日午前中の大本営政府連絡会議(この会議については後にくわしく話します)、十六日の臨時閣議を経て、十九日の御前会議で、まことにあっという間に日独伊三国同盟が国策として決定してしまいました。
拙速(せっそく)といえば拙速ですが、これほどまやかしな国策決定がなぜ猛スピードででき上がったのか。

それはとりもなおさず、十二日に態度を保留していた海軍が、十三日には一転して「現下(げんか)の局面を打開するには他に名案がない」として「政府に一任する」と明言したからです。

かって米内光政・山本五十六・井上成美トリオが猛反対し、当時の海軍中堅クラスも陸軍と戦争をする覚悟で反対した三国同盟を、一年たつかたたないうちに海軍が事実上賛成してしまったのはどうしてか。
これが昭和史の大問題なのです。

上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から引用いたしました。

ヒトラーの思惑はアメリカを牽制しヨーロッパの戦争に参戦させないためには日本との同盟関係が必要と考えていたのは明らかであり日本にも、この機に乗じてという思惑があったように思われます。
日本の思惑とはヨーロッパにおいてナチスドイツがオランダやベルギー、フランスを制圧し英国に対して大攻勢をかけているこの時期のヨーロッパの植民地である東南アジアは手を延ばせば手に入るように見えていたのかも知れません。

日独伊三国同盟には、このような都合のいい思惑が渦巻いていたのではないでしょうか。

今日は以上です。