葦津珍彦氏と前田虎雄氏の交流を今回は神兵隊事件の前後を前回9月9日の続きで葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から見ていきます。
昭和維新や神兵隊事件などについては、あまり関心があるものとは思いませんが時代が抱える問題と人の関わりと捉えてもらえばということです。
以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より
当時私は、諸方の先輩を訪問したが、多くの人には煽動的な感じがあったり、思想的立場があいまいだったりした。
前田先生は、まったく正直、真剣そのものの姿で、弱小の青年に対談された。
この夜の印象は私に忘れがたい記憶である。
それから約七、八ヵ月ののち、昭和八年の六月、千葉直太郎君は肺を病んで死んだ。
上野桜木町の病院で、恋人に看病されながら淋しく死んだ。
私は病院で通夜したが、そのときに前田先生は私と二人だけの席でこんなことをいわれた。
「千葉君が死んで、貴方もさぞや落胆したでしょう。
あと一ヵ月も生きておれば、かれも回天の大業を見ることができたろうに」。
それきりむっつりと黙ってしまったが、私は前田先生がテロの準備をしていることを、はっきりと認めた。
私は翌日、村岡清蔵君に連絡していった。
「前田先生は蹶起するらしいが少し軽率ではないか」といって前夜の話をした。
かれは
「自分は軽率とは思わない。
ご想像どおりにいま準備に狂奔しているが、機密は厳守している。
先生は貴君とは年数も新しいし会ったことも多くないが、格別に信頼しているから機密を漏らしたのだ」
といって、いわゆる神兵隊事件の計画を話してくれた。
私は計画を聞いて「その計画は軍事的にも拙劣だ。それは成功しない。私はその計画には参加できない。前田先生にも、私の批評をよく伝えてくれ」といった。
私は、それでも気にかかるので、前田先生にも会い、村岡君とはたびたび連絡した。
「計画はすでに修正を許さない、君には参加をすすめない」といわれた。
事件の当日は、予定の時間に襲撃目標の警視庁の前に立っていたが、誰も来ない。
警察の自動車がしきりに往来している。
事前に発覚したかと思っていたら、はたして事件を知らせる号外が来た。
神兵隊の人々は下獄した。
村岡清蔵君が病気になったので、私は毎日運動して保釈してもらい、私の経営していた運送会社で世話することにした。
その後ぽつぽつと保釈が行なわれ、村岡君や山本昌彦君の助言で、吉川永三郎君をも迎えた。
最後に前田先生が帰って来られた。
獄から帰って来られた前田先生とは格別に親しく往来した。
そののち数年の間、私は毎週必ず先生と会った。
神兵隊事件をまえにしての先生は、秋霜烈日の感があったが、獄から帰ってのちの先生の趣は変わっていた。
先生は血盟団の獄中の同志などのことを想い、ふたたび蹶起してその志を継がねばならぬ、との強い責任を感じておられた。
日本の現状に対する深い憂色が見えた。
この人は必ずやふたたび剣を執って起つに相違ないとの予想には疑う余地がなかった。
しかし前田さんの人間としての感じは、きわめて温い人情家としての特徴が目についた。
上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から引用いたしました。
神兵隊事件をキッカケとして葦津珍彦氏の前田虎雄氏への思いがより深まっていくと同時にお互いの考え方の違いにも気付いていたということではないでしょうか。
今日は以上です。
昭和維新や神兵隊事件などについては、あまり関心があるものとは思いませんが時代が抱える問題と人の関わりと捉えてもらえばということです。
以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より
当時私は、諸方の先輩を訪問したが、多くの人には煽動的な感じがあったり、思想的立場があいまいだったりした。
前田先生は、まったく正直、真剣そのものの姿で、弱小の青年に対談された。
この夜の印象は私に忘れがたい記憶である。
それから約七、八ヵ月ののち、昭和八年の六月、千葉直太郎君は肺を病んで死んだ。
上野桜木町の病院で、恋人に看病されながら淋しく死んだ。
私は病院で通夜したが、そのときに前田先生は私と二人だけの席でこんなことをいわれた。
「千葉君が死んで、貴方もさぞや落胆したでしょう。
あと一ヵ月も生きておれば、かれも回天の大業を見ることができたろうに」。
それきりむっつりと黙ってしまったが、私は前田先生がテロの準備をしていることを、はっきりと認めた。
私は翌日、村岡清蔵君に連絡していった。
「前田先生は蹶起するらしいが少し軽率ではないか」といって前夜の話をした。
かれは
「自分は軽率とは思わない。
ご想像どおりにいま準備に狂奔しているが、機密は厳守している。
先生は貴君とは年数も新しいし会ったことも多くないが、格別に信頼しているから機密を漏らしたのだ」
といって、いわゆる神兵隊事件の計画を話してくれた。
私は計画を聞いて「その計画は軍事的にも拙劣だ。それは成功しない。私はその計画には参加できない。前田先生にも、私の批評をよく伝えてくれ」といった。
私は、それでも気にかかるので、前田先生にも会い、村岡君とはたびたび連絡した。
「計画はすでに修正を許さない、君には参加をすすめない」といわれた。
事件の当日は、予定の時間に襲撃目標の警視庁の前に立っていたが、誰も来ない。
警察の自動車がしきりに往来している。
事前に発覚したかと思っていたら、はたして事件を知らせる号外が来た。
神兵隊の人々は下獄した。
村岡清蔵君が病気になったので、私は毎日運動して保釈してもらい、私の経営していた運送会社で世話することにした。
その後ぽつぽつと保釈が行なわれ、村岡君や山本昌彦君の助言で、吉川永三郎君をも迎えた。
最後に前田先生が帰って来られた。
獄から帰って来られた前田先生とは格別に親しく往来した。
そののち数年の間、私は毎週必ず先生と会った。
神兵隊事件をまえにしての先生は、秋霜烈日の感があったが、獄から帰ってのちの先生の趣は変わっていた。
先生は血盟団の獄中の同志などのことを想い、ふたたび蹶起してその志を継がねばならぬ、との強い責任を感じておられた。
日本の現状に対する深い憂色が見えた。
この人は必ずやふたたび剣を執って起つに相違ないとの予想には疑う余地がなかった。
しかし前田さんの人間としての感じは、きわめて温い人情家としての特徴が目についた。
上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から引用いたしました。
神兵隊事件をキッカケとして葦津珍彦氏の前田虎雄氏への思いがより深まっていくと同時にお互いの考え方の違いにも気付いていたということではないでしょうか。
今日は以上です。