最近、よく見たり聞いたりする言葉に「維新」がありますが維新という言葉の前に明治とするか昭和とするかでイメージが違って来るように思われます。
新聞やテレビなどで最近よく見聞きする維新は多分、明治維新をイメージしているのではないでしょうか。

それでは昭和維新と明治維新はどう違うのか、をいつもの様に葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から見ていきます。

以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より

私は「軍部」の間で「自然成長」的に発展した昭和維新の動きが、結局のところ悲惨な結末に終わったと判断する。
だが私は、自然成長的思想一般を軽視する者ではない。
歴史の事実の示すところによれば、偉大なる歴史的変革というものは、必ずしも独創的な革命的哲学者・思想家の影響によらなければ生じえないというものではない。

英国の名誉革命とか、日本の明治維新を指導した思想は、必ずしも一、二の独創的な革命哲学者によって生み出された思想によって指導されたものではなくして、その国の伝統的文化が、自然成長的に発展して、現実の国の歴史を動かし、国の新しい情勢と事実の中から、新しい意識が自然に成長する、という経過をたどったように見える。

私が、昭和初期の維新運動の弱みとして力説したいのは、その維新の思想が「軍部」という特殊のせまい限定された社会層の中でのみ、「自然成長」的に形成された、という点にある。
維新運動の思想家が、もっと広汎な国民大衆との結びつきに成功しておれば、事情はあれほどに悲惨なものとはならないですんだかもしれない。

昭和維新運動の活動家たちは、明治維新の志士たちを非常に尊敬し、追慕した人々が多かった。
けれども、かれらの先人たちへの憧憬の情は強烈だったにしても、その教訓を十分にくみとったとはいいがたい。
それは、この二つの時代の歴史を対比してみれば、おのずと明らかとなるであろう。

その詳細な比較は、一つの大きな論文を必要とするほどのものであろうが、ここではとくに印象鮮やかな二三の問題についてのみ例示するにとどめおく。

血盟団、五・一五等の諸事件は、桜田門の変や坂下門の変と似ているといってもいい。
だが明治維新史においては、真木和泉守は、そのような少数精鋭の義兵の行動のみでは、けっして国の大勢の動かしがたいことを痛感した。
かれは現実の政治においては「大藩」を動かすことの必要なことを信じて、強力に長州藩を動かし、ついに禁門の変をおこし、はじめて天下の権を争う決戦の序幕を開いた。

それは、昭和維新史における二・二六にも似ているといってもいい。
だがこの二つの事件の指導者の態度はあまりにも違いすぎる。

上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から引用いたしました。

広汎な国民との強いつながりがあってこそ運動が「自然成長」していった明治維新というものを比較することで、その先頭に立った志士・活動家の行動と覚悟の違いというものが見えてくると思います。
こういうことで次回は志士や活動家の行動を見ていきます。

今日は以上です。