渋沢栄一が旧幕臣の受け皿として静岡での商法会所という取り組みを始めたことは前回の7月25日に見てきましたが今回は静岡商法会所の具体的な事業活動島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」から見ていきます。

以下、島田昌和氏 社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より

政府からの借用金札である太政官札二六万両(正金換算)と同規模の資金を民間から集めたかったようだが、結果として一八六九(明治二)年一月に一万六〇〇〇両の藩出資と一万八〇〇〇両の士民出資を得て総額二九万五〇〇〇両の静岡商法会所が設立された。

会所の代表には御勘定組頭・平岡と小栗尚介、頭取格に勘定組頭格の渋沢、御用達に一二名の商人が入って発足した(佐々木聡)。
業務内容は、商品抵当の貸付金や定期当座の預かり金といった金融業務、京阪地方で仕入れた米穀肥料等の藩内での売却や、村への貸与などであった。
三井組の三野村利左衛門を通じて太政官札を銀貨などの正金に交換し、物品を購入し販売した。

買い入れたのは全国各地から米穀、茶、蚕卵紙、繭、水油(なたね油などの灯油)、塩、砂糖、半紙、下駄、鼻緒、干鰯(ほしか)・油粕・乄粕・糠などの肥やし物、などのさまざまの商品であった。
渋沢自身も東京へ乄粕・干鰯・油粕などを買付けに行ったことを後年記している(『伝記資料』第二巻)。
また、静岡へ移住する幕臣に対して製茶や養蚕等への起業資金を貸し付けてもいる。

「商会の事業は有利に進行し、応分の利益を収めるまでに運び、また市内でも預金するものなどが追々増加し、世人もその利便を感じ、やや当初の目的を達するようになって来た」と、後に自ら述べている(『伝記資料』第二巻)。
一年に満たない期間に八万五〇〇〇両の利益を上げており、これは総資本利益率にして二九%にのぼり、現代と単純に比較できないものの、十分な成果と言えよう。

明治二年春には一八五八(安政五)年に結婚した妻・千代と長女・歌子、尾高惇忠や後に渋沢家の秘書役を務めた芝崎確次郎らの同郷人を静岡に呼びよせており、その点からも事業が軌道に乗り始めていたことがうかがえる。

しかし、同年四月に新政府は紙幣と正金との差額による商売を規制したため、同会所は豪農二名を加えて米穀の安定供給を業務に加える改変をして、名称も「常平倉(じょうへいそう)」と改めた。
また、御用達商人の中には私腹を肥やす行為をはたらく者が出たりといったトラブルも生じた。
そしてその後一八七二(明治五)年七月、業務を静岡県に引き渡して廃止され、さらにその後は関与していた商人二名が三井組に入社し、業務も三井組にゆだねられていった。

上記は島田昌和氏 社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。

静岡商法会所の業務内容を見てみると今の商社と銀行の機能を兼ねていたようですが不換紙幣の太政官札を三井組の三野村利左衛門を通じて銀貨などの正金に交換価値の裏付けをしていったことは民業の発展にとって大事なポイントであったように思います。

今日は以上です。