渋沢栄一がパリ万博使節団の一員として渡欧しヨーロッパ各国を視察して西欧の吸収していましたが滞在費などから帰国することになり、帰国後の生き方について迷っていた様子を島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より紹介・引用いたします。
以下、島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より
この頃からフランス政府の幕府に対するスタンスの変化があらわれ始め、同時に滞在経費が早くも底をつきかけており、幕府の軍艦の建造を依頼したオランダ商事会社から借入れを組んで何とか先の滞在費を工面している。
これらの情勢変化もあってその後、目的は昭武の留学に絞られ、随行員のうち向山と箕作貞一郎、日比野清作、それに水戸藩から遣わされた七名中四名は一八六七年一二月末で帰国となった。
残ったのは水戸から遣わされた身辺警護の小姓たちのうち、昭武の留学生活に合わせて洋装脱刀に応じた者たちであった。
さらに山高も昭武の御傅役を免ぜられて帰国の途に就き、最後は昭武と渋沢と留学生の小出湧之助、水戸から派遣された菊池・三輪の計五名という小所帯となった。
栄一は翌一八六八年二月に「外国奉行支配調役」に任ぜられ、栗本駐仏公使の業務をサポートしつつ、昭武一行の事務全般を見ていた(『伝記資料』第一巻)。
一八六八年のはじめには、幕府の瓦解を現地の新聞で知るようになり、渋沢は送金の途絶えた英仏に滞在中の幕府留学生を昭武の滞在経費の節約分から工面して帰国させている。
新政府からの正式な帰国命令書も届くが、渋沢は昭武をなるべく長くフランスで勉強させたいと考えていた。
しかし、昭武の水戸家の相続が決まったという報に接して帰国を決意した。
この年の終わり近く、出発から二年弱で帰国することになった。
帰国した渋沢は「何一つ学び得たこともなく、空しく目的を失って帰国したまでの事」と述べていることからわかるように、先行きに対して積極的な展望をもちえないでいた(『伝記資料』第二巻)。
帰国した時点で榎本武揚らがいまだ箱館に立てこもって抗戦していたが、それに対して渋沢は、その戦略のなさを指摘して幻滅している。
すなわち、圧倒的な海軍力があるにもかかわらずそれを機動的に用いて新政府に揺さぶりをかけるわけでもなく、また従兄の喜作を含めて箱館にこもるのはいわば「烏合の衆」とも言えるさまざまな立場の人々であり、とうてい新政府への抵抗勢力になりえないと判断していた。
上記は島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。
帰国した渋沢栄一自身がヨーロッパでの滞在で得た知識をどのように活かすか、ということと幕府の瓦解と新政府の誕生などから自身の先行きに迷いもあったのではないでしょうか、ただ先行きに対し展望をもちえないことから今後の生き方を考えるキッカケとして次に自らを活かす道へとつながっていったと思います。
今日は以上です。
以下、島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より
この頃からフランス政府の幕府に対するスタンスの変化があらわれ始め、同時に滞在経費が早くも底をつきかけており、幕府の軍艦の建造を依頼したオランダ商事会社から借入れを組んで何とか先の滞在費を工面している。
これらの情勢変化もあってその後、目的は昭武の留学に絞られ、随行員のうち向山と箕作貞一郎、日比野清作、それに水戸藩から遣わされた七名中四名は一八六七年一二月末で帰国となった。
残ったのは水戸から遣わされた身辺警護の小姓たちのうち、昭武の留学生活に合わせて洋装脱刀に応じた者たちであった。
さらに山高も昭武の御傅役を免ぜられて帰国の途に就き、最後は昭武と渋沢と留学生の小出湧之助、水戸から派遣された菊池・三輪の計五名という小所帯となった。
栄一は翌一八六八年二月に「外国奉行支配調役」に任ぜられ、栗本駐仏公使の業務をサポートしつつ、昭武一行の事務全般を見ていた(『伝記資料』第一巻)。
一八六八年のはじめには、幕府の瓦解を現地の新聞で知るようになり、渋沢は送金の途絶えた英仏に滞在中の幕府留学生を昭武の滞在経費の節約分から工面して帰国させている。
新政府からの正式な帰国命令書も届くが、渋沢は昭武をなるべく長くフランスで勉強させたいと考えていた。
しかし、昭武の水戸家の相続が決まったという報に接して帰国を決意した。
この年の終わり近く、出発から二年弱で帰国することになった。
帰国した渋沢は「何一つ学び得たこともなく、空しく目的を失って帰国したまでの事」と述べていることからわかるように、先行きに対して積極的な展望をもちえないでいた(『伝記資料』第二巻)。
帰国した時点で榎本武揚らがいまだ箱館に立てこもって抗戦していたが、それに対して渋沢は、その戦略のなさを指摘して幻滅している。
すなわち、圧倒的な海軍力があるにもかかわらずそれを機動的に用いて新政府に揺さぶりをかけるわけでもなく、また従兄の喜作を含めて箱館にこもるのはいわば「烏合の衆」とも言えるさまざまな立場の人々であり、とうてい新政府への抵抗勢力になりえないと判断していた。
上記は島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。
帰国した渋沢栄一自身がヨーロッパでの滞在で得た知識をどのように活かすか、ということと幕府の瓦解と新政府の誕生などから自身の先行きに迷いもあったのではないでしょうか、ただ先行きに対し展望をもちえないことから今後の生き方を考えるキッカケとして次に自らを活かす道へとつながっていったと思います。
今日は以上です。