二・二六事件における青年将校の考え方として前回7月1日は事件後の対応について磯部大尉の見解を中心に見てきましたが今回は磯部大尉や栗原中尉とは異なる考え方を葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から見ていきます。
以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より
奉勅命令が明らかとなれば、無条件的に帰順し自決すべきだとの思想の方がむしろ多数派であろう。
その典型的なものは、自決せる河野寿大尉によって明記されている。
かれは同志に告ぐる書においていう。
尊皇愛国の同志心ならずも大命に抗せし逆徒と化す、何ぞ生きて公判廷に於て世論を喚起し得べき、若し世論喚起されなば、却って逆徒に荷担するとの輩となり不敬を来さん、既に逆徒となりし以上、自決を以て罪を闕下に謝し奉り、遺書に依りて世論を喚起するを最良なる尽忠報国の道とせん(前掲書)。
かれは、奉勅命令への反抗を許しがたいとするばかりでなく、天皇によりて逆徒とされた以上、生きて法廷闘争をすることすらも許されないとする主義である。
河野の天皇観においては、現状維持派の補佐があろうと、革命党の補佐があろうと、天皇はつねに絶対の天皇である。
この磯部氏と河野氏の見解・信念の対立は、奉勅命令に抗するか服するかという戦術上の対立にとどまるのではなくして、国家観・天皇観の本質的な対決を意味する。
それは国家観の根本的な対決であって、したがって、改造建設のコースにはいれば、必然的に対決せざるをえない対決なのである。
二・二六の青年将校は、奉勅命令の発せられるとの説を聞いて、しばしば討論している。
それは表面的には、戦術討論のように見えるし、おそらくそのときには、戦術論と思った人もあったであろうが、本質的には、思想対決が根底にある。
前掲の中村武彦氏のいうように「青年将校と北イデオロギーは、それほど密着不可分でなかった」。
河野寿大尉の天皇論は、北流ではなくして、帝国陸軍の直流であり、それは二・二六の将校の中だけに限っても、むしろ多数派の思想である。
村中孝次氏は、前記の磯部氏とちかく、かつ北一輝氏の「改造法案」に対しても、これを高く評価しているけれども、この村中氏ですらもその天皇観、国家観は、本質的には磯部的思想よりも、むしろ河野的陸軍の伝統的思想にちかい。
かれの「続丹心録」においては、最後まで奉勅命令下達の正式手続のなかったことを力説し「豈大命に抗するものならんや」と切言している。
かれの記録においては、維新があくまでも天皇の発意をまって行なわるべきことを強調して、臣民の作成せる建設案を天皇に強要することの許すべからざるを力説している。
おそらく村中氏さえも、磯部氏の革命的「大義大忠」には同意しなかったであろう。
この思想の差は、獄中の心境を書いたものの中にもいちじるしい色彩をもって表われている。
磯部、栗原氏等の遺書は、革命の成らざるを怒り、憤り、怨霊となって報復せねばやまぬという殺気に満ちたものとなっている。
これに反して高橋太郎氏の「判決、明断なり、我等が赤忠を認め、その罪をたたく、余すなし、喜びて死す」というがごとき、また中橋基明氏が「天皇陛下、皇后陛下、皇太后陛下に対し奉り、此世に生を享けし事の感謝感激を表し奉る」との遺書のごとき、明澄淡々たるものもある。
それはけっして個人的な性格や気質の差からくるものではなくして、国家観、天皇観、革命観の差に由来するものであろう。
上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。
二・二六事件の青年将校の考え方というものを通じて昭和維新の思想的潮流を見てきましたが、目的意識ということに同志間でどこまで認識を共有していたのか疑問に感じる部分があります。
ただ、血盟団事件から五・一五事件そして神兵隊事件を経て二・二六事件と政官財という体制に対する破壊を優先したことが特徴的なように思います。
今日は以上です。
以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より
奉勅命令が明らかとなれば、無条件的に帰順し自決すべきだとの思想の方がむしろ多数派であろう。
その典型的なものは、自決せる河野寿大尉によって明記されている。
かれは同志に告ぐる書においていう。
尊皇愛国の同志心ならずも大命に抗せし逆徒と化す、何ぞ生きて公判廷に於て世論を喚起し得べき、若し世論喚起されなば、却って逆徒に荷担するとの輩となり不敬を来さん、既に逆徒となりし以上、自決を以て罪を闕下に謝し奉り、遺書に依りて世論を喚起するを最良なる尽忠報国の道とせん(前掲書)。
かれは、奉勅命令への反抗を許しがたいとするばかりでなく、天皇によりて逆徒とされた以上、生きて法廷闘争をすることすらも許されないとする主義である。
河野の天皇観においては、現状維持派の補佐があろうと、革命党の補佐があろうと、天皇はつねに絶対の天皇である。
この磯部氏と河野氏の見解・信念の対立は、奉勅命令に抗するか服するかという戦術上の対立にとどまるのではなくして、国家観・天皇観の本質的な対決を意味する。
それは国家観の根本的な対決であって、したがって、改造建設のコースにはいれば、必然的に対決せざるをえない対決なのである。
二・二六の青年将校は、奉勅命令の発せられるとの説を聞いて、しばしば討論している。
それは表面的には、戦術討論のように見えるし、おそらくそのときには、戦術論と思った人もあったであろうが、本質的には、思想対決が根底にある。
前掲の中村武彦氏のいうように「青年将校と北イデオロギーは、それほど密着不可分でなかった」。
河野寿大尉の天皇論は、北流ではなくして、帝国陸軍の直流であり、それは二・二六の将校の中だけに限っても、むしろ多数派の思想である。
村中孝次氏は、前記の磯部氏とちかく、かつ北一輝氏の「改造法案」に対しても、これを高く評価しているけれども、この村中氏ですらもその天皇観、国家観は、本質的には磯部的思想よりも、むしろ河野的陸軍の伝統的思想にちかい。
かれの「続丹心録」においては、最後まで奉勅命令下達の正式手続のなかったことを力説し「豈大命に抗するものならんや」と切言している。
かれの記録においては、維新があくまでも天皇の発意をまって行なわるべきことを強調して、臣民の作成せる建設案を天皇に強要することの許すべからざるを力説している。
おそらく村中氏さえも、磯部氏の革命的「大義大忠」には同意しなかったであろう。
この思想の差は、獄中の心境を書いたものの中にもいちじるしい色彩をもって表われている。
磯部、栗原氏等の遺書は、革命の成らざるを怒り、憤り、怨霊となって報復せねばやまぬという殺気に満ちたものとなっている。
これに反して高橋太郎氏の「判決、明断なり、我等が赤忠を認め、その罪をたたく、余すなし、喜びて死す」というがごとき、また中橋基明氏が「天皇陛下、皇后陛下、皇太后陛下に対し奉り、此世に生を享けし事の感謝感激を表し奉る」との遺書のごとき、明澄淡々たるものもある。
それはけっして個人的な性格や気質の差からくるものではなくして、国家観、天皇観、革命観の差に由来するものであろう。
上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。
二・二六事件の青年将校の考え方というものを通じて昭和維新の思想的潮流を見てきましたが、目的意識ということに同志間でどこまで認識を共有していたのか疑問に感じる部分があります。
ただ、血盟団事件から五・一五事件そして神兵隊事件を経て二・二六事件と政官財という体制に対する破壊を優先したことが特徴的なように思います。
今日は以上です。