福島原発事故をめぐる政府・東電による対応などに関して事故調査委員会の審議から原発事故という現在の危機の論点について考察された宗教学者の山折哲雄氏が日経新聞に連載されている「危機と日本人」を紹介・引用いたします。

以下、山折哲雄氏「危機と日本人」(17)より

福島原発をめぐる「国会事故調査委員会」の質疑が一段落した。
事故対応にかかわる論点整理がおこなわれ、あとは最終報告書を待つばかりである。
その論点整理のなかで、当時の菅直人首相らによる事故現場への過剰な介入が混乱を拡大した、との見解が示された。

もう一つ中心的な論点となったのが、危機回避のため現場ではたらいている作業員にどのような指示を発したのかということだった。
「全面撤退」を要請する声があがった、いや、真意は「一部退避」のはずだった、と東電側と政府側で見解の違いが露(あら)わになった。
いったいどちらに責任があるのか、それがはっきりしないまま、結局、責任のなすり合いとしか思えない後味の悪さをのこして幕が引かれてしまった。

一連の報道をテレビで見たり、新聞記事を読んだりして賦(ふ)に落ちなかったのは、現場で危険な作業にあたっていた人々の生命の状態についてほとんど議論が及んでいなかったことである。
あえていえば、「撤退」論や「退避」論のなかで、犠牲という問題が正面からとりあげられていないらしいことだった。

現場にふみとどまってもらえば、犠牲が出るかもしれない、だから全員を撤退させようと考えたのか、それともたとえ犠牲が出るとしても、一部の人間だけにはどうしても残ってほしいと考えたのか。
そのような問題である。
その場合、現場にふみとどまる人々が犠牲になるかもしれないことに目をつぶるのか、それともそのような危機的な状況を覚悟するのか、ということだった。
もう一つ重ねていえば、それは東電の責任において決断することなのか、それとも政府と首相が覚悟し決断を下すことなのか、という課題でもあった。

きつい言い方になるかもしれないけれども、人命の犠牲にかかわる危機的な論点がやはり隠されていたというほかはない。
質疑とか審議といいながら、犠牲という言葉を使うことが慎重に回避されていたのではないだろうか。
それにかわってわれわれが連日のように、異口同音に口にしていたのが人命の安全という言葉だったことに、あらためて気がつく。

あの事故のとき以来もはや「安全」神話が崩れ去っているのに、意識下においてはいぜんとして安全、安全と、ワラをもつかむような思いでその言葉にしがみついているわが身をふり返らないわけにはいかなかったのである。
そういえばマスメディアの多くも、現場の作業員たちを日々脅かしているはずの犠牲という問題をとりあげ、ふみこんだ記事にするということがなかったように思う。
現場からの全員撤退ということが、犠牲回避のための祈るような叫びであったことに着目するような記事もあらわれることはなかった。
そんなことをすれば、放射性物質による汚染と被害が全国に及ぶ、そんなリスクと犠牲を国民が引き受けるわけがないではないか。
そんな背景までが浮かびあがってくる。

国会の「事故調」の審議が一段落したとき私が思いおこしたのが、あの原発の直後にアメリカから寄せられた強烈なメッセージだった。
フクシマ・フィフティーズ・ヒーロー――「フィフティーズ」というのは、現場で危機回避のため命がけでたたかっている作業員たち「五十人」を指していた。
この五十人は、まさに命を賭して献身しているからこそ「英雄」であるという励ましのメッセージだったのだ。
その犠牲的献身によってはじめて危機をのりこえ、それによって大多数の人間の安全が確保されるのだ、という思想である。

だからこそこの危機を何としてでも食いとめてほしい、そういう強烈な願望と期待のあらわれであったといっていいだろう。
ところがわが国のメディアのほとんどは、その翌日から、この犠牲という観念と表裏一体の「ヒーロー」という言葉をいっせいに使わなくなる。
封印してしまったのである。
かれらを「ヒーロー」にしてはいけない、という口実のもとに‥‥‥。

危機における生き残りの道をどう考えるのか、ということである。
「事故調」の審議のやり方といい、メディアの報道のあり方といい、やや旧式な言い方にはなるけれども、やはり義に悖(もと)る態度、というほかはないのではないだろうか。
たしか一昨年あたりから、ハーバード大学のサンデル教授による正義をめぐる「白熱教室」が社会的な話題になり、それがあの3.11の前後にも大きな盛りあがりをみせていた。
あれなどもこの国では、結局はたんなる言語ゲームでしかなかったことがわかるのである。

上記は日経新聞、日曜版に連載されている山折哲雄 「危機と日本人」(17)より引用いたしました。

この記事を読んでみて「犠牲」に目を向けることで危機に対する認識と対応という点が明確になったのでは、という視点で捉えられていると思います。
確かに原発事故そのものとその後の対応そして今回の事故調査委員会の審議、メディアの報道などに責任の所在などハッキリしないと言うか回避しているように感じられます。

問題は何だったのか、「犠牲回避」「危機回避」などの言葉の裏側の論点が必要であり、あいまいさ排除したものが求められるのではないでしょうか。

今日は以上です。