天津事件をめぐって対英交渉で日本の主張が通った途端にアメリカの態度が強硬となり日米通商航海条約の廃棄を通告されることになりますが当時の出来事を半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回6月9日の続きで見ていきます。
以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より
つまりアメリカは日本に対してこれから敵対行為をとることを表明したわけです。
実際の条約廃棄はそれから半年後の昭和十五年一月なのですが、アメリカはこの通告以降、日本の威嚇(いかく)などものともせず、けしからんことは断乎として認めないと完全に強硬路線をあらわにします。
つまり、それまでイギリスだけが相手だったところにアメリカが敢えて割って入ってきたのです。
これは、なんとかごまかしてきた対アメリカ政策の破綻であるわけです。
事実この後、日米交渉がこの問題をめぐってはじまるのですが、今までそれほど強硬なことは言わなかったアメリカがはっきりと敵対意識をとるようになりました。
以上のようなことが、ノモンハン事件の最中(さなか)の日本の国内および外交でした。
まさに歴史は昭和十四年の夏――私は『ノモンハンの夏』という本を書きましたが――大きく転換しました。
反英の気運と親独の動きを背景に、私たちの生活もまた転換していったのです。
その前に、この昭和十四年がその後もいろいろな意味で影響を残しているという話に触れておきます。
直前の昭和十三年十二月十七日、ドイツの物理学者オットー・ハーン博士が、実験により、ウラニウム235をウラニウム原石から分離し、そこから中性子が飛び出して、それがさらにウラニウム235を破壊する、するとまた中性子が出てきて‥‥‥という分裂一つひとつにつき想像を絶する二億電子ボルトのエネルギーが放出される、つまり中性子によるウランの核分裂に成功したと発表しました。
原子力というものが人類の前に登場したのです。
これを受けてアインシュタイン博士は、ルーズベルト米大統領に、もしこのウラニウム235の核分裂が兵器に用いられたとしたら、ほんのマッチ箱一つくらいの爆弾で戦艦を一隻撃沈できる、アメリカも直ちにこの問題を深刻に受けとめ、研究する必要があると手紙を書きました。
これが昭和十四年八月二日のことでした。
アインシュタイン博士は、これをドイツが開発して原子爆弾の製造に成功すれば、人類はただならぬ状態に置かれるという危機感から手紙を書いたのですが、ルーズベルト大統領はすぐには反応しなかったものの、やがてこれが原子爆弾製造への道を切り開きました。
一方、日本では昭和十四年三月十七日、ゼロ戦――正式には零式艦上戦闘機といって、航空母艦から発信できるもので、あまり重くてはいけませんし、といって武器が不十分でも困りますから、直径二〇ミリの機関銃を積んで撃ち出せる戦闘機というので開発にずいぶん苦労したのですが―が誕生しています。
これが正式に戦闘機として採用されるのは翌昭和十五年です。
かって日本は年号として紀元というのを神武天皇即位を元年として使っていまして、ちょうど昭和十五年が紀元二六〇〇年に当たるので、その最後の「〇」をとって「零戦」というのです。
その前の飛行機はたとえば紀元二五九九年にできたものであれば「九九艦爆(九九式艦上爆撃機)」とか、紀元二五九七年であれば「九七艦攻(九七式艦上攻撃機)」と呼んだのです。
つまり、片や原子爆弾、片や零式戦闘機というわけです。
またこの年、十六歳から十九歳の青少年を満州に送り、関東軍を側面から応援するという「満蒙開拓青少年義勇軍」の計画が四月二十九日に発表されます。
さらに五月二十二日、「青少年学徒に賜りたる勅語」が発せられ、「汝(なんじ)ら学徒の双肩にあり」、国の運命はおまえたち学徒の双肩にかかっている、学徒よしっかりしろ、と鼓舞したのです。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。
原子爆弾研究と戦闘機開発そしてノモンハン事件など、昭和十四年は得体の知れない力で戦争へ動き出していたのですね、次回もこの時代の様子を見ていきます。
今日は以上です。
以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より
つまりアメリカは日本に対してこれから敵対行為をとることを表明したわけです。
実際の条約廃棄はそれから半年後の昭和十五年一月なのですが、アメリカはこの通告以降、日本の威嚇(いかく)などものともせず、けしからんことは断乎として認めないと完全に強硬路線をあらわにします。
つまり、それまでイギリスだけが相手だったところにアメリカが敢えて割って入ってきたのです。
これは、なんとかごまかしてきた対アメリカ政策の破綻であるわけです。
事実この後、日米交渉がこの問題をめぐってはじまるのですが、今までそれほど強硬なことは言わなかったアメリカがはっきりと敵対意識をとるようになりました。
以上のようなことが、ノモンハン事件の最中(さなか)の日本の国内および外交でした。
まさに歴史は昭和十四年の夏――私は『ノモンハンの夏』という本を書きましたが――大きく転換しました。
反英の気運と親独の動きを背景に、私たちの生活もまた転換していったのです。
その前に、この昭和十四年がその後もいろいろな意味で影響を残しているという話に触れておきます。
直前の昭和十三年十二月十七日、ドイツの物理学者オットー・ハーン博士が、実験により、ウラニウム235をウラニウム原石から分離し、そこから中性子が飛び出して、それがさらにウラニウム235を破壊する、するとまた中性子が出てきて‥‥‥という分裂一つひとつにつき想像を絶する二億電子ボルトのエネルギーが放出される、つまり中性子によるウランの核分裂に成功したと発表しました。
原子力というものが人類の前に登場したのです。
これを受けてアインシュタイン博士は、ルーズベルト米大統領に、もしこのウラニウム235の核分裂が兵器に用いられたとしたら、ほんのマッチ箱一つくらいの爆弾で戦艦を一隻撃沈できる、アメリカも直ちにこの問題を深刻に受けとめ、研究する必要があると手紙を書きました。
これが昭和十四年八月二日のことでした。
アインシュタイン博士は、これをドイツが開発して原子爆弾の製造に成功すれば、人類はただならぬ状態に置かれるという危機感から手紙を書いたのですが、ルーズベルト大統領はすぐには反応しなかったものの、やがてこれが原子爆弾製造への道を切り開きました。
一方、日本では昭和十四年三月十七日、ゼロ戦――正式には零式艦上戦闘機といって、航空母艦から発信できるもので、あまり重くてはいけませんし、といって武器が不十分でも困りますから、直径二〇ミリの機関銃を積んで撃ち出せる戦闘機というので開発にずいぶん苦労したのですが―が誕生しています。
これが正式に戦闘機として採用されるのは翌昭和十五年です。
かって日本は年号として紀元というのを神武天皇即位を元年として使っていまして、ちょうど昭和十五年が紀元二六〇〇年に当たるので、その最後の「〇」をとって「零戦」というのです。
その前の飛行機はたとえば紀元二五九九年にできたものであれば「九九艦爆(九九式艦上爆撃機)」とか、紀元二五九七年であれば「九七艦攻(九七式艦上攻撃機)」と呼んだのです。
つまり、片や原子爆弾、片や零式戦闘機というわけです。
またこの年、十六歳から十九歳の青少年を満州に送り、関東軍を側面から応援するという「満蒙開拓青少年義勇軍」の計画が四月二十九日に発表されます。
さらに五月二十二日、「青少年学徒に賜りたる勅語」が発せられ、「汝(なんじ)ら学徒の双肩にあり」、国の運命はおまえたち学徒の双肩にかかっている、学徒よしっかりしろ、と鼓舞したのです。
上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。
原子爆弾研究と戦闘機開発そしてノモンハン事件など、昭和十四年は得体の知れない力で戦争へ動き出していたのですね、次回もこの時代の様子を見ていきます。
今日は以上です。